【那須国造碑】
(なすのくにのみやつこのひ)


●指定年月日

昭和27年11月22日指定

●所在地

大田原市湯津上

●アクセス方法

JR那須塩原駅から自動車で30分・西那須野インターから車で30分

●公開状況

 

●所有者又は管理者

笠石神社

●公開画像

●文化財概要

 大田原市湯津上の笠石神社に祀られている石碑で、文字の刻まれた石の上に笠のように石を載せていることから「笠石」とも呼ばれている。花崗岩製で、江戸時代に設置された台石より上の部分の高さは約148pである。
 碑文は19字8行、全152字からなる。永昌(えいしょう)元年(689)四月に、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の大宮(持統朝)から、那須国造(くにのみやつこ)であった那須直韋提(なすのあたいいで)は、評督(こおりのかみ)という評(後の郡)の長官の官職を授かり、その後、庚子(かのえね)の年(700)の正月二日に亡くなったため、那須国造家の意斯麻呂(おしまろ)らが、碑を立てて故人の遺徳を讃え、偲び祀った、ということなどが記されている。
 碑文は、7世紀末頃に活躍した那須直韋提の業績を讃えるものである。また、「永昌」は中国の唐の時代に周を建国した武則天の元号であり、碑の文字が古代中国で発達した六朝(りくちょう)の書風であること、またこの当時新羅人を下毛野国に居住させたということが「日本書紀」に記されていることなどから、渡来人と非常に密接な関係のある資料として注目される。
 江戸時代に那須国造碑が顕彰されるようになったのは、徳川光圀と地元の人びとの尽力によるものである。
 延宝4年(1676)に奥州岩城の牢人で僧になった円順が、湯津上村を通りかかった時、里の人が近寄ると怪我をしたり、馬をつなぐと足をくじいたり、血を吐いたりするといわれる不思議な石であるという話を聞きつけた。これを小口村の庄屋大金重貞に伝えたところ、重貞は碑文を写し取り『那須記』に記した。
 天和3年(1683)年、徳川光圀が巡検でこの地を訪れた際、重貞が『那須記』を献上したことから、光圀は碑の存在を知ることとなった。那須国造の墓碑と考えた光圀は、貞享4年(1687)、家臣の佐々介三郎宗淳に碑主の捜索を命じ、まず、国造碑の下の塚を発掘したが手がかりはなかったため、元禄5年(1692)2月、地元で国造の墓との伝承がある侍塚の発掘に着手した。これは、日本で初めての学術的発掘調査といわれている。古墳の被葬者の解明はならなかったが、光圀は国造碑を保存するため碑堂を建設し、侍塚古墳の出土品を埋め戻し、墳丘を整え、崩落を防ぐため松を植えるなどし、碑や古墳の保護を行った。
 これら一連の事業は、光圀が家臣の佐々介三郎宗淳に命じ、大金重貞が現地で指揮を執ることによって実施された。元禄5年(1692)6月には完成した碑堂を自ら参詣している。
 なお、この石碑は群馬県高崎市の多胡碑、宮城県多賀城市の多賀城碑とともに日本三古碑の一つに数えられており、その中でも最も古いものと考えられている。