小倉百人一首
『小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)』と宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)〔蓮生(れんしょう)〕

鎌倉時代(かまくらじだい)初期の宇都宮城主宇都宮頼綱は出家して蓮生法師(れんしょうほうし)といい、京都(きょうと)に住み、歌人藤原定家(ふじわらのていか)に和歌の指導をうけました。
蓮生の娘が、藤原定家の子、為家(ためいえ)の妻となるほど、その交流は深かったようです。
蓮生は、別荘である嵯峨(さが)の中院山荘(ちゅういんさんそう)の障子に飾る歌を、藤原定家に選んでもらい、それがもとになって、後に『小倉百人一首』ができました。

蓮生の時代には、宇都宮氏を中心に武士たちが和歌を詠み、『新式和歌集(しんしきわかしゅう)』を編集しました。
宇都宮氏の和歌活動の場を「宇都宮歌壇」といいます。
宇都宮市大通り5丁目の清巌寺(せいがんじ)に蓮生の墓があります。