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小杉 放菴 |
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小杉放菴はどのようにして画家になったのか |
(1)放菴の少年時代
放菴は日光二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)の神官の末っ子として生まれ、15歳の時、父のすすめで洋画家、五百城文哉(いおきぶんさい)に弟子入りします。
文哉は日光の美しさにひかれ、この地に住み、この地で没した画家です。この師弟は、来る日も来る日も草花を写生し、名画の複製を模写しました。
この修行が画家としての基礎をしっかりと作ることになります。
(2)上京して画家となるまで
19歳で上京した放菴は、画塾(がじゅく)「不同舎(ふどうしゃ)」に入門し、本格的に西洋画の勉強を始めます。
そのころ名乗り始めた雅号(がごう)が「未醒(みせい)」です。
文学者である国木田独歩(くにきたどっぽ)に認められ、独歩が主催する近事画報社(きんじがほうしゃ)の特派員画家として朝鮮半島(ちょうせんはんとう)に渡りました。
日露戦争(にちろせんそう)の戦況報告をスケッチにして送る仕事をし、戦場の悲惨な様子を淡々と描き写しました。
日本に帰ると写実的にとらえた油絵を発表し、当時最も過激的な画家となります。
30歳で、正確な描写と日本的な味わいを持った油絵「水郷」(すいごう)が文部省主催の美術展覧会で最高賞を獲得し、一躍日本洋画界の期待の星となります。