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日光山輪王寺 |
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輪王寺はどのような歴史を刻んできたか |
(1)日光山(にっこうざん)開山から江戸時代(えどじだい)まで
勝道上人(しょうどうしょうにん)によって男体山(なんたいさん)の登頂に成功し日光山は開山されました。
その時に輪王寺の起源とされている四本竜寺(しほんりゅうじ)が建てられました。その後名称が満願寺(まんがんじ)と変わりました。
当時、およそ十八万石と比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に次ぐ寺領(じりょう)をかまえていましたが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原攻めの際、北条氏(ほうじょうし)に味方をしたということで寺領の多くを没収されたため、一時衰退(すいたい)しました。
(2)江戸時代
徳川家康(とくがわいえやす)が神として日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)に祀(まつ)られたこともあり、日光は再び繁栄しました。
輪王寺も例外ではありませんでした。また、55世貫主(かんしゅ)である守澄法親王(しゅちょうほっしんのう)が輪王寺宮の号を賜った(たまわった)こともあり、この時、輪王寺という名称に変更されました。
大猷院(写真提供 日光山輪王寺)
(3)近代
明治(めいじ)時代に入り神仏分離令(しんぶつぶんりれい)が出されました。
それまで日光の社寺には神と仏の区別がありませんでした。
輪王寺においては過去109あった寺が満願寺1カ所に併合されてしまいました。
その後、一山十五ヶ院が復興し現在の輪王寺となりました。
輪王寺の堂塔(どうとう)が1カ所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在していたり、徳川家光(とくがわいえみつ)の霊廟(れいびょう)として有名な大猷院(だいゆういん)が輪王寺に所属していたりするのもこれらの出来事の影響です。