勝道上人
勝道上人は、どのようにして日光を開山したのか

31歳になった上人は、下野薬師寺(しもつけやくしじ)を出て、大剣ヶ峰(だいけんがみね)〔横根山(よこねやま)〕に登り、そこでの1年間の修行の後、北方にそびえる男体山(なんたいさん)をめざし、精進岳(しょうじんだけ)にたどりつきました。
下山して大谷川(だいやがわ)を渡り、対岸の二荒山(ふたらさん)ろく〔現在の日光山(にっこうさん)内〕に行こうとしましたが、谷深く流れの激しいこの川を渡ることができませんでした。
このとき、神仏に祈り、神の助けで川を渡ったという伝説があります。その伝説の橋が山菅橋(やますげばし)で、今の神橋(しんきょう)です。

大谷川を渡った上人は、そこに、四本竜寺(しほんりゅうじ)を建てました。
その寺が、日光山で最も古い寺で輪王寺(りんのうじ)の起こりであると言われています。

その後、上人は山の霊の力を身に付け、自分の信仰を完全なものにしようと考え、僧としてだれも登ったことのない男体山の登頂をめざしましたが、原始林にはばまれ、失敗に終わりました。

782年の春、上人は、3度目の登頂をめざしました。
神々に祈り、決死の覚悟で山頂をめざした上人は、とうとう男体山の頂上に登りつくことができたと伝えられています。

上人は、その後、中禅寺湖(ちゅうぜんじこ)のほとりに、神宮寺(じんぐうじ)を建てて、自作の「立木観音(たちきかんのん)」を本尊(ほんぞん)にまつったり、二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)を建てたりしました。

今日の日光の基礎をつくった勝道上人は、弘仁(こうにん)8年(817年)に82歳で亡くなったと伝えられていますが、今でも日光開山の祖として、人々に尊ばれています。