下野薬師寺跡
下野薬師寺はどのように栄えてきたか


下野薬師寺跡戒壇推定模型
(下野市教育委員会提供)

奈良時代(ならじだい)、聖武天皇(しょうむてんのう)は、正しい仏教の教えを広めるために唐から鑑真(がんじん)をまねきました。

鑑真は、僧としての正しい教え(戒律)を授けるための施設〔戒壇(かいだん)〕を東大寺(とうだいじ)(奈良県)に造りました。

これにより、厳しい修行を積み、戒壇で「受戒(じゅかい)」という儀式を行ってはじめて僧になるための資格がもらえるようなしくみが整えられました。


その後、同じような施設が、筑紫観世音寺(つくしかんぜおんじ)〔福岡県(ふくおかけん)〕と下野薬師寺にも造られました。

それからは、「天下の三戒壇」と呼ばれ、下野薬師寺は、僧になりたい者が大勢訪れる格式の高い寺院になりました。


また、下野薬師寺は、奈良時代の終わりごろ法王として思うままに国の政治を行っていた道鏡(どうきょう)が、力を失ったあとに流されてきた寺としても有名です。

近くには道鏡の墓と言われる「道鏡塚」や道鏡の伝説などがたくさん残されています。


記録に「七大寺(しちだいじ)〔東大寺、法隆寺(ほうりゅうじ)など〕のごとし」と書かれましたように、平城京(へいじょうきょう)の大寺院に負けないくらいに大きく立派な寺となり、その敷地は、たて250m×横330mくらいだったと想像されています。