小山氏城趾
小山城(おやまじょう)〔祇園城(ぎおんじょう)〕


小山城のシンボル祇園橋

小山城趾(おやまじょうし)(国史跡)は、現在は城山公園(しろやまこうえん)として市民に親しまれており、空堀や土塁のあとが残されています。

小山城の築城については、その年代や築城者は明らかではありませんが、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫、大田政光(おおたまさみつ)が、1148年に小山氏を名のり、この城を築いたのが始まりであると言われています。

小山氏は、源平合戦(げんぺいかっせん)、南北朝の戦乱で武将として名をあげ、領地を拡大しました。
南北朝時代(なんぼくちょうじだい)末期には21代の義政(よしまさ)が、鎌倉公方(かまくらくぼう)足利氏満(あしかがうじみつ)の制止を無視して、宇都宮城主基綱(もとつな)を討ち取ったのが原因で小山義政の乱(1380~1382年)が起きました。

敗れた義政は自害し、小山氏直系は滅びましたが、のちに同族の結城基光(ゆうきもとみつ)の次男泰朝(やすとも)が入城して小山氏を再興し、以後、小山氏代々の本城となりました。


堀の跡

戦国時代(せんごくじだい)には、堀を深くし土塁を高くするなどして小山城の形が整いました。

さらに天正(てんしょう)4~5年(1576~1577年)ころ、小山秀綱(おやまひでつな)は小田原(おだわら)の北条氏に屈服し、北条氏照(ほうじょううじてる)が城主になると、城の大改修が行われました。


その後、小山城は小山氏に返されましたが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原攻めの時、小山氏は北条氏に加勢したため、天正18年(1590年)、小田原城落城とともに小山氏は領地を没収され、小山政光(おやままさみつ)以来、4世紀半の長い間栄えてきた小山氏は滅亡しました。

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)ののち、元和(げんな)2年(1616年)、徳川家康(とくがわいえやす)の命により本田正純(ほんだまさずみ)が小山3万3千石の城主となり、近世城郭(きんせいじょうかく)に改修しましたが、元和5年(1619年)、宇都宮城主として国替えとなり、小山城は廃城になりました。

小山城は、高い土塁と深い空堀、および泥田堀(どろたほり)によって三重に囲み、東西約790メートル×南北約1336メートルという広大な平山城でした。


現在、城の東側は宅地化されていますが、丘陵上には中世城郭の面影が残っています。

伝説によると、小山城が落城した時、姫が井戸に身を投げ、家臣が供養のために銀杏の小枝をさし、根づいたが実をつけないという「実なし銀杏」が、一番奥の曲輪に残っています。