大田原竹工芸
どんな物なの?

竹と日本人

竹は、まっすぐにのびた幹がなめらかで美しく、軽くて弾力性があります。

昔から、こうした特長を生かして弓矢を作ったり、丸竹のまま器や水筒にしたり、割ってひごにして編んだり組んだり、さまざまに使われてきました。

弥生時代(やよいじだい)には、鉄などの金属が輸入されるようになり、斧(おの)やナタなどの道具を使って竹を「割る・削る」という材料作りの工程が格段に進み、竹を使った「ざる」や「かご」などの生活道具が人々の生活をより豊かにしてきました。

農村では、穀物を振るう「箕(み)」、苗や種などを入れる「種洗いざる」、収穫物を入れる「かご」、山村では「背負いかご」、漁村では釣った魚を入れる「乾燥かご」、また炊事用具としての「ざる」などは、どの家庭にもなくてはならない日用品でした。

一方、室町時代(むろまちじだい)の「村田珠光(むらたじゅこう)」や、安土桃山時代(あづちももやまじだい)の「千利休(せんのりきゅう)」といったすぐれた茶人に愛された竹細工の茶器・花器は、今でも茶道や花道に使用されています。

現在では、竹製品に代わって別の素材のものが出回り、一般的に使用されなくなった道具もありますが、ぬくもりのある竹細工は「民芸品」として親しまれ、全国各地で作られています。

大田原竹工芸の歴史

大田原が「竹の産地」と広く知られるようになったのは、1972年、日中友好(にっちゅうゆうこう)の証しとして中国(ちゅうごく)から贈られた2頭のパンダの主食に大田原の良質な竹が選ばれたのがきっかけでした。

しかし、それ以前から大田原は、この豊富な「竹」を活かした竹芸品づくりが盛んで、全国工芸展などで輝かしい成績を収めている作家がたくさんいました。
その作家の下で学び、多くのアマチュア愛好家が活発な創作活動を行っています。

戦後間もない頃、大田原市内の竹工芸家・八木澤啓造(やぎさわけいぞう)さんは数人の仲間と「那須竹工」という小さな竹細工会社を設立しました。
集まったのは竹には縁のない素人ばかりでしたが、復員したばかりの職人を講師に「ざる」や「かご」の日用品を作り、地道に活動してきました。
その中にはのちに人間国宝となる若き日の勝城蒼鳳(かつしろそうほう)さんの姿もありました。

2005年、大田原市(おおたわら)市野沢(いちのさわ)の勝城さんは、栃木県で4人目の「人間国宝」に認定されました。

勝城さんは、1934年、旧高林村(たかばやしむら)〔現在の那須塩原市(なすしおばらし)〕の農家に生まれ、父親が竹製農具を作っていたことから幼少期から製作に携わり、15歳で黒磯市(くろいそし)(現在の那須塩原市)の竹細工師、故・菊地義伊(きくちぎい)氏に入門、1965年からは八木澤さんや故・斎藤文石(さいとうぶんせき)氏に師事、本格的な創作活動をはじめました。

現在、大田原の竹工芸は全国的にも高く評価されています。
今後、地域の伝統工芸から、さらに地場産業として成り立つようになっていくことでしょう。