清水登之 | |
清水登之の略年表 |
清水登之の略年表
明治(めいじ)20年 (1887年) |
1月1日、栃木県(とちぎけん)下都賀郡(しもつがぐん)〔現在の栃木市大塚町〕の地主、清水籐十郎(しみずとうじゅうろう)・ムラ夫妻の長男として生まれます。 |
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明治34年 (1901年) |
栃木県立栃木中学校(現在の栃木高等学校)に入学します。(14歳) |
明治38年 (1905年) |
士官学校への進学を決意し、東京の成城学校(現在の成城高等学校)へ転校します。(18歳) |
明治39年 (1906年) |
成城学校を卒業します。陸軍士官学校を受験しますが失敗します。(19歳) |
明治40年 (1907年) |
単身アメリカへ渡ります。 ・西海岸で生活費を得るための労働に従事します。(20歳) |
大正(たいしょう)元年 (1912年) |
シアトルのオランダ人画家フォッコ・タダマの画塾(がじゅく)に入門します。(25歳) |
大正6年 (1917年) |
ニューヨークに出て、アート・スチューデント・リーグで学びます。 ・商業美術で生計を立てるためにバスケットのデザインをします。(30歳) |
大正9年 (1920年) |
結婚のため12年ぶりに帰国します。2月、家中村村長の長女と挙式を挙げます。 ・4月にはニューヨークに向けて横浜を出航します。(33歳) |
大正10年 (1921年) |
2月、長男育夫(いくお)が誕生します。 ・第34回アメリカ絵画彫刻展に「横浜夜景(よこはまやけい)」を出品します。 ・受賞対象となりますが、アメリカ人ではないという理由から受賞を逃します。(34歳) |
大正13年 (1924年) |
ヨーロッパに渡ります。その後2年半ほどパリを中心に活躍します。(37歳) |
昭和(しょうわ)2年 (1927年) |
帰国します。二科展(にかてん)に出品するようになります。(40歳) |
昭和5年 (1930年) |
第17回二科展で、二科賞(にかしょう)を受賞します。(43歳) ・独立美術協会の創立に参加します。 |
昭和6年 (1931年) |
第1回独立協会展に「地に生きる」他8点を出品します。(44歳) ・11月、長女冨美子(ふみこ)が誕生します。 |
昭和7年 (1932年) |
上海事変(しゃんはいじへん)の戦跡を描きます。以後従軍画家(じゅうぐんがか)として戦地へ赴きます。(45歳) |
昭和20年 (1945年) |
大塚町の生家に疎開します。6月、息子育夫の戦死の報を受けます。 ・12月7日、疎開先の生家で逝去します。(58歳) |