清水登之
清水登之はどのような生涯を送ったのか

(1)アメリカに渡るまで〔1887~1906〕
・登之の家は、父の代で没落するようになりましたが300年間19代続いた大地主であり、幼いころから、めずらしいもの、新しいものに囲まれながら育ちます。
・幼いときから大変絵がうまく、栃木中学在学中に描いたビスマルクの肖像画(鉛筆)が明治天皇(めいじてんのう)に献上されたなどの話があります。
・士官学校の試験に落第し、画家を志すこととなります。
・アメリカで働きながら学び、最終的にはフランスを目指すことを考えていました。 


(2)アメリカ西海岸時代〔1907~1917〕
・ワッパトを中心に農場などで働きましたが、生活は苦しかったです。
・サンフランシスコの美術学校に入学するためにシアトルにもどり、岩手県(いわてけん)出身の阿部氏(あべし)からオランダ人のフォッコ・タダマの画塾(がじゅく)を勧められ、画学生生活を始めます。
・夏場の4ヶ月はアラスカの鮭の缶詰工場で働き、シアトルに帰ると画塾に通って勉強しました。
缶詰工場や蒸気船の掃除などの仕事をしながら、タダマの助手として壁画の手伝いをしたり作品を出品したりしていました。


(3)ニューヨーク時代〔1917~1924〕
・生活の糧を得るためにバスケットのデザインなどを描くことになります。
・アート・スチューデント・リーグでケネス・ヘイズ・ミラー、ジョージ・ベローズ、ジョン・スローンらのもとで学びます。
彼らはアメリカ的主題を写実的に描こうというアメリカン・シーン派を代表する画家でした。
・12年ぶりに結婚のため帰国し、再びニューヨークに帰ります。
・翌年長男育夫(いくお)が誕生します。温かい家庭人としての一面が加わります。
・1920年から1924年までの第2次ニューヨーク期は、自らの画風を確立し、アメリカ美術界で高い評価を得、パリでの2年半と共に最も充実した時期でした。
・シカゴで開催された第34回アメリカ絵画彫刻展では「ヨコハマ・ナイト」が受賞対象となりましたが、“現代のアメリカ人芸術家による油彩画(ゆさいが)と彫刻のみ”とする展覧会であったため、外国人であるという理由から受賞を逃しました。


(4)フランス時代〔1924~1926〕
・2年半ほどパリを中心に活躍します。
パリで一番変化したのは色彩で、これまでにない色彩への関心が一挙に開花した時期です。
・常に前へ進むことを意識し、キュビスム(立体派)を始め、新しい美術の動きに関心を持ち続けていました。


(5)帰国、日本への適応〔1927~1935〕
・独立美術協会に参加するまではヨーロッパで得た主題を中心に、落ち着いた作品を生み出しています。
一方で日本の農村を描く大作が開始され故郷の風土とその中に生きる農民の姿が主題となります。
・作風にフォーヴィズム(野獣派)への接近が感じられ、独立美術協会でフォーヴィズムやシュールレアリスム(超現実主義)の画家達と交わることは大きな刺激となりました。
・日本的主題を描くことで、ユーモアは影をひそめ、次第に剛直な「土への賛美」といった主張が表に出てきます。


(6)戦争の時代〔1932~1945〕
・1938年を境に戦争画が急速に増えますが、抽象絵画を目指すような実験的な態度が見られます。
・いかにも戦争画というものは1942年を過ぎてからで、1日、2日で手早く仕上げました。
時間をかけ、練りに練って描いたのは戦争画とは言えない難民が主題の作品でありました。
・登之は、ひたむきな姿勢で戦争画に取り組み、終戦の年に亡くなりました。

※ 清水登之の作品は、栃木県立美術館のホームページで見ることができます。