円仁
円仁はどのような業績を残したのか

関東地方(かんとうちほう)や東北地方(とうほうくちほう)には、栃木県(とちぎけん)の日光山(にっこうさん)をはじめとして、埼玉県(さいたまけん)の喜多院(きたいん)、福島県(ふくしまけん)の霊山寺(りょうぜんじ)、宮城県(みやぎけん)の瑞巌寺(ずいがんじ)、山形県(やまがたけん)の立石寺(りっしゃくじ)(山寺)、岩手県(いわてけん)平泉町(ひらいずみちょう)の中尊寺(ちゅうそんじ)、毛越寺(もうつじ)など、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が開いた、または再興(さいこう)したと伝えられる寺が数多くあります。

立石寺のある山形県においては、10を越える寺を開いています。これは、円仁が天長(てんちょう)6年(829年)から天長9年(832年)まで東国巡礼(とうごくじゅんれい)の旅に出て、この時に、天台宗(てんだいしゅう)の教えを伝え広めたことが大きな基盤となっています。


その後、円仁は、承和(じょうわ)5年(838年)、遣唐船で唐に渡り、福建省(ふっけんしょう)の開元寺(かいげんじ)や中国仏教三大霊山に数えられる五台山(ごだいさん)で修行し、承和14年(847年)に帰国しました。

長安(ちょうあん)に滞在中、唐の十五代皇帝武宗(ぶそう)による仏教への弾圧にあい苦しみましたが、唐に渡ってからの9年間を、日記「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」全4巻にまとめ、帰国後、当時の中国のようすを日本にくわしく伝えました。

本書は、マルコポーロの「東方見聞録(とうほうけんぶんろく)」、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の「大唐西域記(だいとうさいいきき)」とともに、三大旅行記として高く評価されています。


円仁と「入唐求法巡礼行記」が世界的に有名になったのは、元駐日アメリカ大使のライシャワー博士が、その論文の中でマルコポーロの「東方見聞録」よりも歴史的に価値が高いとして世界の人々に広く紹介したことによります。

ライシャワー博士は、昭和39年に岩舟町(いわふねまち)を訪れ、円仁が修行した大慈寺(だいじじ)などを見ています。


帰国後、円仁は朝廷の信任を得て、斉衡(さいこう)元年(854年)、61歳の時に延暦寺(えんりゃくじ)の座主(ざす)となり、天台宗の発展に努めました。

熱病におかされ、貞観(じょうがん)6年(864年)に71歳で亡くなりましたが、その2年後の貞観8年(866年)、生前の業績のすばらしさにより、日本で初めて「慈覚大師(じかくだいし)」という大師号(だいしごう)がさずけられました。