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栃木の蔵 |
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蔵の街はどのようにして生まれたのか |
「蔵」があるということは、そこに入れておく物資や資金があったということです。
「蔵の街」栃木(とちぎ)は、北関東(きたかんとう)有数の商都として発展しました。
1617年、徳川家康(とくがわいえやす)の霊柩(れいきゅう)が日光山(にっこうさん)へ改葬され、その後、朝廷からの使いが日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)へ毎年参向するようになりました。
朝廷からの使いを例幣使(れいへいし)ということから、通る道は「例幣使街道」と呼ばれました。
栃木はこの街道の宿場町となり、人が集まり、物があつまるようになりました。
これが商都としての発展のきっかけになったといわれています。
さらなる発展の原動力となったのは、巴波川(うずまがわ)を利用した船による江戸(えど)との交易であったといわれています。
江戸からは日光御用の荷や塩などが運ばれ、栃木からは木材や農産物などが運ばれました。巴波川の舟運(しゅううん)は江戸の初めから利用され、しだいに交易が盛んになり、江戸の終わり頃には栃木の商人達は大いに栄えたといわれます。
その商人達が白壁の土蔵(どぞう)を巴波川の両岸に沿って建てていきました。
栃木市の蔵の街並みは、かつての裕福な商人達の歴史が築いてきたものです。