戊辰戦争
戊辰戦争が起こったときの栃木県はどんなようすだったか

戊辰戦争の北上に呼応するように、1868年3月末から現在の宇都宮市を中心に、世直し一揆(いっき)が起きました。
貧しい農民や都市に住む貧しい人々が、裕福な農家や商家、役人に打ちこわしをかけ、貧しい人々の救済や、質入れした土地や品物をすぐに返すこと、物価の引き下げなどを要求しました。
発生地は安塚村(やすづかむら・・・現在の壬生町)とも日光道中石橋(いしばし)宿ともいわれます。

4月1日下栗村(しもぐりむら・・・現在の宇都宮市)に集まった農民は、駆けつけた藩役人の説得を拒否し、群衆を増やしながら南に進みました。
4月2日雀宮(すずめのみや)宿(現在の宇都宮市)本陣や西川田村(にしかわだむら・・・現在の宇都宮市)郷村取締役宅を打ちこわした後、城下を目指して北上しました。
5000名に拡大した世直し勢に対して、武装した宇都宮藩兵は、城下への立ち入りを拒否しました。
その代わり、要求をきき、酒、醤油、干鰯(肥料)などの二割値下げが決まりました。
4月3日西部の村々が呼応し、八幡山(はちまんやま)に集合しました。
その数は3万人です。
城下になだれ込もうとしましたが塙田村(はなわだむら・・・現在の宇都宮市)に待機していた藩兵の銃撃を浴びて、田原村(たわらむら・・・現在の宇都宮市)から白沢(しらさわ)宿(現在の宇都宮市)へと北上しました。
白沢宿で打ちこわしの後、一手は氏家(うじいえ)宿(現在のさくら市)へ、もう一手は徳次郎(とくじら)宿(現在の宇都宮市)から鹿沼(かぬま)宿(現在の鹿沼市)へと分かれました。
その入り口にある御成橋(おなりばし)で、宇都宮藩の発砲にあい、死者を出しながら例幣使街道(れいへいしかいどう)を北上し、勢力を弱めていきました。
宇都宮藩は、武力でようやく一揆勢を鎮圧しましたが、治安回復を目指しているところに、戊辰戦争が起きたのです。