那須与一
与一の最期について

与一の最期については、文治(ぶんじ)5年(1189年)8月8日に京都で死去し、伏見(ふしみ)の即成院(そくせいいん)に葬られたという記述那須系図(なすけいず)と、建久(けんきゅう)元年(1190年)10月に源頼朝(みなもとのよりとも)に従って京都に向かう途中、山城国(やましろのくに)伏見(ふしみ)で急死し、即成院に葬られたという記述〔『続郡書類従(ぞくぐんしょるいじゅう)』〕があります。

死去した年齢についても確実な史料が残っていないため、明確なことはわかっていませんが、前述の屋島の戦い(やしまのたたかい)の時に17歳という記述(『群書類従』)もあり、20歳代前半から半ばで若くして死去したのではないかと推定されています。