川上澄生
川上澄生はどのような芸術活動を行ってきたのか

(1)関東大震災(かんとうだいしんさい)後-大正(たいしょう)から昭和(しょうわ)へ
川上澄生と横浜(よこはま)の関係は深く、横浜で生まれますが一家はすぐに転居します。
横浜では過ごしていないものの、カナダへの渡航や震災直前の8月にスケッチに訪れてます。
澄生が描くのは山の手の情景です。震災でがれきの山となりますが、記憶に残った故郷は戦後、作品となって甦ることとなります。


(2)モダニズムの開花-震災復興がもたらしたもの
地域の版画人と関わりを持ち、姿川村(すがたがわむら)の教師達と発行した『村の版画』や宇都宮中学生(うつのみやちゅうがくせい)との『刀』では中心となり、積極的に活動しています。
他の版画家達と交流し、恩地孝四郎(おんちこうしろう)らと共に「新東京百景(しんとうきょうひゃっけい)」の制作に着手し、若さにあふれた充実していた期間にあたります。


(3)軍部(ぐんぶ)の台頭(たいとう)-満州事変(まんしゅうじへん)から日中戦争(にっちゅうせんそう)へ
時代の流れにもてあそばれます。
弟達が次々と戦地に向かい、宇都宮中学校の英語教師を辞職する志を固めていました。
この時期には作品数も減少しています。


(4)太平洋戦争(たいへいようせんそう)から終戦へ
昭和12年(1942年)、宇都宮中学校を退職します。
英語教師ということで職場に居づらくなりつつありました。
木活字本の制作を始め、『南蛮船記(なんばんせんき)』『たばこ渡来記(とらいき)』を完成させます。


(5)北海道(ほっかいどう)の短くも充実した日々
戦争をのがれるように身重の妻と二人の子とともに妻の郷里、北海道追分(ほっかいどうおいわけ)に疎開します。
無事次女が誕生したあと苫小牧中学校(とまこまいちゅうがっこう)の嘱託教師(しょくたくきょうし)となったところで終戦を迎えます。
宇都宮とは違う広がりのある風景と向き合い、樽前山(たるまえさん)などの風景を作品にしています。
このころ版画集『苫小牧』では、油絵の具による多色刷り(たしょくずり)を試みます。
戦後の出版ブームの中、北海道内外の書籍や定期刊行物(ていきかんこうぶつ)の装幀(そうてい)、装飾を手がけ、美術家のみならず、作家とも交流をもちました。