仁井田一郎
仁井田一郎の略年表

仁井田一郎の略年表

明治(めいじ)45年
(1912年)
現在の足利市(あしかがし)に生まれます。
旧制中学校に入学後、農業に強い関心を持ち、中退して農業に取り組みます。野菜作りを主体とした経営を行います。
生産出荷組合を設立するなど次第にリーダー的存在に成長します。
昭和(しょうわ)22年
(1947年)
第一回御厨町(みくりやまち)(現在の足利市)議会議員に選ばれます。
町議会に産業対策協議会が結成され、仁井田一郎は農業対策委員となります。
その際、議会で新しい作物「いちご」の導入を提案し、議会で可決されます。
昭和25年
(1950年)
町長笠原一郎(かさはらいちろう)を団長とする協議会の視察団の一員としていちご栽培の先進地静岡県(しずおかけん)志太郡下(しだぐんか)の農協のいちご及び庄内白菜(しょうないはくさい)の視察研修を行います。
その時いちご苗8本を御厨町に持ち帰り栽培しました。
しかし、乾燥にあい失敗します。
その後町内より視察希望者を募り、静岡県、神奈川県(かながわけん)のいちご栽培先進地の視察研修を重ねます。
昭和26年
(1951年)
御厨町をいちごの町として、農業所得の向上、豊かな町づくりをすすめるために議員を辞任して御厨町農協参事に就任し、本格的にいちご産地化を目指します。
昭和28年
(1953年)
静岡県から八雲を導入しいちごの露地栽培を行います。
昭和30年
(1955年)
いちご栽培への情熱は一層強くなります。
いちご栽培指導に様々な制約があることから農協を退職し、生産向上、産地化指導に専念します。
いちごの露地栽培からより早期出荷をするために石垣促成栽培にも取り組みます。
昭和33年
(1958年)
石垣栽培の一層早期化をするために田沼町(たぬままち)〔現在の佐野市(さのし)〕愛村農協(あいそんのうきょう)の柿沼兵次氏(かきぬまへいじし)らとともに日光戦場ヶ原(にっこうせんじょうがはら)で高冷地育苗(こうれいちいくびょう)を試行し、いちごの年内収穫を成功させます。
昭和40年
(1965年)
いちごを北海道(ほっかいどう)市場へ空輸し、さらに新潟(にいがた)市場開拓にも成功します。
昭和45年
(1970年)
いちご栽培一筋に活動した努力と農業振興に寄与した功績から日本農会総裁・高松宮宣仁親王殿下(たかまつのみやのぶひとしんのうでんか)より農業改良功績者として緑白綬有功章(りょくはくじゅゆうこうしょう)を受章します。
昭和50年
(1975年)
亡くなります。
昭和62年
(1987年)
仁井田氏の庭内に「栃木県苺発祥地」の記念碑が栃木県知事渡辺文雄(わたなべふみお)の揮毫(きごう)により建立されます。