仁井田一郎
仁井田一郎はどのようにしていちご栽培を普及させたのか

(1)地位と名誉を捨てていちご栽培に尽力
①当時、経済的な理由や選抜試験等で入学することが難しかった旧制中学校に入学するも農業に関心を持ち、中途退学します。
②御厨町(みくりやまち)〔現在の足利市(あしかがし)〕をいちごの町として、農業所得の向上、豊かな町づくりをすすめるために議員を辞任し、御厨町農協参事に就任します。
そして、本格的にいちご産地化を目指します。
③いちご栽培指導に様々な制約があることから農協を退職し、いちごの生産向上、産地化指導に専念します。


(2)仁井田一郎はどのようにしていちご栽培を研究したのか
当時の遠距離地への交通手段は汽車でした(汽車といっても現在よりも何倍もの時間がかかりました)。
当初、この汽車によって仁井田一郎は静岡県(しずおかけん)や神奈川県(かながわけん)を訪ね、いちご栽培の資料を入手しました。
しかし、時間的な制約などのため仁井田一郎はいちご栽培の細部の技術が理解できませんでした。
そのため、家族の反対を押し切り、自転車で神奈川県寒川町(さむかわまち)まで行き、10日間もその自転車で多くの農家を尋ねるために走り回ったのです。
さらに現地の自然条件を併せて調査し、苗を自分のほ場で確認、実証するなど栃木県(とちぎけん)でいちごを栽培を盛んにするために努力したのです。
現地の自然条件に併せて栽培する方法として、日光戦場ヶ原(にっこうせんじょうがはら)などで現在も行われている高冷地育苗(こうれいちいくびょう)は仁井田一郎らが試行したものです。

仁井田一郎のいちご栽培への取り組みが新聞等で報道されますと、いちご栽培に関心のある人たちがたくさん仁井田を訪ねました。
仁井田一郎はどのような時も喜んでいちご栽培の方法を教えたのです。


(3)市場の開拓
大消費地東京(とうきょう)への出荷に加え、新たに飛行機による北海道(ほっかいどう)への出荷および新潟(にいがた)市場の開拓を行うことで消費の拡大を図り、成功します。
ますますいちご栽培の需要が増していき、栃木県におけるいちご栽培が盛んになります。そして自ずと農家の所得が向上していきました。