仁井田一郎
仁井田一郎たちがいちご栽培に取り組む前(戦後まもない頃)の栃木県(とちぎけん)の農業はどのようなものだったのか

戦後の混迷が次第に落ち着きを取り戻してきた頃、昭和(しょうわ)27年には麦類の統制が廃止され、また化学繊維の進出で大麻価格が下落し、二毛作地帯や大麻産地では深刻な不安が起こりました。
つまり、農家の主な収入源は稲作であり、「副収入を得るための作物がないのではないか」という不安を乗り切るために栃木県内各地で新作目の導入試作が行われるようになりました。

(1)いちご栽培を始める前の栃木県の農業
・栃木県の農業は稲作が中心でありますが、他の県でもたくさん栽培されていました。
次第に、国の減反政策(げんたんせいさく)〔お米をたくさん作り過ぎないようにする政策〕が取られるようになり、思うように農家の所得は向上しませんでした。
・所得を向上させるために、農家の人たちは商品作物として麦、麻などを栽培しました。
しかし、価格の低迷や化学繊維の進出などにより思ったような需要がありませんでした。

①お米は全国でどのように生産されるようになったか
・品種改良や農家の人たちの努力によって、北海道(ほっかいどう)など今まで冷涼な気候のために稲作が困難と思われていた地域でも稲作が行われるようになります。
また、地域の気候にあったおいしいお米が生まれ、お米の生産競争が激しくなります。

②農家の人たちはお米以外にどのような作物(商品作物)を生産していたのか
・春から秋にかけて稲を育てた後、農家の人たちは秋から春にかけて麦(主に二条大麦)を栽培しました。
しかし、麦の市場価格は安く、農家の人たちの所得向上とまではいきませんでした。
・それぞれの地区で野菜を栽培していましたが、他県から大量に良質な野菜が出荷され、思うような副収入は得られませんでした。


(2)いちごはどこで栽培されていたのか
・温暖な気候を利用して静岡県(しずおかけん)や神奈川県(かながわけん)ではいちごの露地栽培が盛んでした。
・静岡県では温暖な気候と地形の特色を生かして海側(南面)の丘陵地(きゅうりょうち)に石垣をつくり、その石垣でいちごを栽培しました(石垣いちご)。