かんぴょう農家
かんぴょう生産はどのようにして全国1位になっていったのか

(1)かんぴょうむきの方法の改善
かんぴょうむきは手かんなという道具を用いて行われていました。
これは輪切りにしたかんぴょうふくべを内側から手かんなをあてて左手で押さえ、右手でふくべを回転させてむく方法です。
それに対し、海老原右京(えびはらうきょう)〔現在の下野市出身(しもつけししゅっしん)〕は手回し式器械を発明しました。
この手回し式器械とは木製の台に回転軸を取り付け、これにかんぴょうふくべを取り付けてハンドルを手で回し、かんなをつけた木の部品で押さえながらふくべの表面をむいていく方式の器械です。
海老原右京の発明した早むき器は輪切りにしたかんぴょうを器械にかけるものでありましたが、この海老原の発明が現在、使われているようなかんぴょうをまるごと取り付けてむく早むき器につながっていったのです。
すなわち、この海老原の発明が栃木県においてかんぴょう生産が増えていった一要因となったと言えるのです。


(2)かんぴょうむき機の普及
かんぴょうむき機の技術の特許を取り消したことで、海老原右京が発明した早むき器に類似する早むき器が各地でたくさん考案されるようになり、県内はもちろん他県にまで販売され、広まっていきました。
海老原右京は特許を返納した後も各地からの求めに応じて早むき機の製作および販売に取り組みました。
現在、明治(めいじ)時代の後半から大正(たいしょう)時代にかけて大分県(おおいたけん)や茨城県(いばらきけん)から多数の早むき器の注文があったことを示す注文書が残されています。