日光東照宮
日光東照宮はどのような人々によって造られたのか

二代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)は元和(げんな)2年(1616年)10月に家康(いえやす)の遺言を受けて、天海(てんかい)〔1536~1643慈眼大師(じげんだいし)〕、藤堂高虎(とうどうたかとら)〔1556~1630伊勢国津藩主(いせくにつはんしゅ)〕、本田正純(ほんだまさずみ)(1565~1637)らに日光廟(にっこうびょう)の造営を命じました。

日光東照宮の設計を行ったのは家康からも厚い信頼を受けていた幕府の大工頭である中井清正(なかいきよまさ)(1565~1619)で、元和3年(1617年)3月に本殿・拝殿・本地堂などの主な社殿が完成しました。

また、寛永(かんえい)11年(1634年)に三代将軍家光(いえみつ)の命により、日光東照宮の大造替(だいぞうたい)が行われました。

この造替には、幕府作事方大棟梁(ばくふさじかただいとうりょう)であった甲良宗広(こうらむねひろ)が総指揮官として作業にあたりました。

この造替によって創設時の社殿の規模や配置は一新され、さらに豊かで豪華絢爛(ごうかけんらん)な社殿に生まれ変わりました。

この造替は「費用お構いなし」というほどの国家的大事業であり、総工費はおよそ100万両(現在の約1000億円)ともいわれ、それらのお金はすべて幕府が負担したとも言われています。

現在の日光東照宮は、その後何度かの造替や再建はあるものの、この寛永の大造替以降ほとんど姿を変えておらず、なかには国宝や重要文化財に指定されている建造物や彫刻などが数多く存在しています。