今宮神社祭の屋台行事
彫刻屋台(ちょうこくやたい)とはどのようなものか


彫刻屋台

祭りでは、簡単な「踊り屋台」で各町内が踊りと狂言を競い合い、奉納していました。

江戸時代(えどじだい)の政治改革により、ぜいたくが禁じられ、祭りも制限されるようになりますと、踊りや狂言は控えられ、代わりに屋台の飾りに力が注がれるようになりました。

文政(ぶんせい)元年(1818年)、日光五重塔(にっこうごじゅうのとう)の再建時に彫物を受け持った後藤正秀(ごとうまさひで)が、仲町(なかまち)や上田町(かみたまち)の屋台の彫物を手がけ、文久(ぶんきゅう)3年(1863年)には日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の修営に当たった平五郎(へいごろう)〔磯辺敬信(いそべたかのぶ)〕が、上横町(かみよこまち)の屋台を手がけました。

下野各地の屋台の彫物については、日光山造営の彫師たちが、冬、仕事ができなくて山から下り、あるいは日光からの帰路に作ったものであると言い伝えられています。

現在、屋台を所有している町は27町あり、江戸時代の物が13台残っています。