足尾銅山の歴史
江戸時代(えどじだい)の足尾銅山はどんなようすだったか

(1)江戸時代の略年表

慶長(けいちょう)15年
(1610年)
・足尾村の2人の農民によって発見され、江戸幕府の直営の銅山となり、代官所(だいかんしょ)が設けられます。
寛永(かんえい)4年
(1627年)
・足尾の銅で江戸城(えどじょう)や東照宮の瓦等を製造します。
延宝(えんぽう)4年
(1676年)
・銅山の採掘と銅輸出を幕府が承認しました。
このころから「足尾千軒(あしおせんげん)」といわれる繁栄をほこるようになります。
享保(きょうほう)11年
(1726年)
・渡良瀬川(わたらせがわ)の大洪水がおこり、銅山が大破してしまいます。
弘化(こうか)元年
(1844年)
・銅山は休止となります。


(2)銅山のようす

①坑内の作業にはそれぞれの役割分担があり、鉱石を掘る「堀り大工」、鉱石を選り分けて運び出す「手子(てご)」や「負夫(おいふ)」、坑道(こうどう)に支柱をする「留大工(とめだいく)」、坑内にたまる水をくみだす「樋引(といびき)」など、およそ530名の労働者が働いていました。

作業は全部手作業だったため、重労働でした。


②1670~1685年ごろは、毎年1000t以上の銅が生産され、幕府の財政を支え、足尾の町は「足尾千軒」とよばれるほどにぎわいました。


③銅は江戸城や日光山(にっこうさん)で使用されたり、オランダや中国にも輸出されたりしました。


④「足字銭(あしじせん)」とよばれる銅銭「寛永通宝(かんえいつうほう)」を、2000万枚もつくったこともありました。