足尾銅山の歴史 | |
昭和時代(しょうわじだい)の足尾銅山はどんなようすだったか |
(1)昭和時代の略年表
昭和10年(1935年) | ・足尾銅山に新しい選鉱場(せんこうじょう)ができ、鉱毒被害がひどくなります。 |
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昭和23年(1948年) | ・重液選鉱法(じゅうえきせんこうほう)に成功し、選鉱の完全機械化が進みます。 |
昭和25年(1950年) | ・朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)が勃発して再び銅山が発展し始めますが、鉱毒問題がはっきりとあらわれてきました。 |
昭和29年(1954年) | ・小滝坑(こだきこう)から銅がとれなくなり閉鎖されてしまいます。 |
昭和31年(1956年) | ・公害防止装置の付いた自溶精錬法(じようせいれんほう)を取り入れ、足尾精錬所ができます。 | 昭和47年(1972年) | ・古河鉱業は足尾銅山採鉱部門の閉鎖を発表します。 | 昭和48年(1973年) | ・銅がとれなくなってきて、銅の価格が低下しました。 公害問題が起こったといった理由で、足尾銅山が閉山となります。 | 昭和49年(1974年) | ・公害紛争調停が決着しました。 | 昭和62年(1987年) | ・選鉱・製錬所の操業も停止して、銅の町の歴史を閉じます。 |
(2)銅山のようす
①昭和時代になると機械化・合理化がさらに進み、労働環境も少しずつよくなりました。
②新しく坑道を開いたり、鉱石を採掘する作業には新式鑿岩機(さくがんき)が採用されて、鑿岩機で開けられた穴に発破(はっぱ・・・爆薬で爆破すること)をかけて岩を砕きながら進み、砕かれた鉱石は鉱車で選鉱場へ運ばれるようになりました。
③昭和48年の閉山までに掘られた坑道の長さをまっすぐにのばしてみると1,200kmで、東京(とうきょう)-博多(はかた)までの長さになり、今も備前楯山(びぜんたてやま)の地下深くに横たわっています。