大谷石細工
大谷石の歴史

栃木県(とちぎけん)内の壬生町(みぶまち)車塚古墳(くるまづかこふん)と間々田町(ままだまち)千駄塚付近(せんだづかふきん)百塚(ひゃくづか)で大谷石製の石棺(せっかん)が発掘されています。

旧帝国ホテルなどの洋館建築に使用された大谷石は、大正(たいしょう)12年の関東大震災(かんとうだいしんさい)においてそのすぐれた耐震性・耐火性が証明されました。

その結果、交通が発展すると、東京(とうきょう)をはじめ関東一円に販売網が広がり、倉庫、工場、防火壁、住宅などの建物にはもちろん、石塀や門柱、玄関ポーチなどの付帯設備、さらに土留め、側溝などの土木用材としても幅広く使われるようになりました。

戦後の復興期からは、手掘りに代わって機械掘りによる大量採掘が可能になり、その需要は増え続けてきました。

この20年ほど、輸入外国産天然石や次々と開発される安価な人造石に押され、大谷石の需要は次第に少なくなってきましたが、近年、人造石にはない大谷石独特の風合いが再び注目を浴びています。


手掘り時代の採掘

採掘が本格的にはじまった江戸時代(えどじだい)の中頃から、機械化される昭和(しょうわ)35年(1960年)頃までの道具といえば、数本のツルハシ類と、石を運ぶときに使われた背負子(しょいこ)ぐらいしかありませんでした。

ツルハシによる手掘り時代の採掘法では、厚さ6寸×巾10寸×長さ3尺(18cm×30cm×90cm)を1本掘るのに、ツルハシを3,600回も振るったといわれます。

また、1人の石切り職人の採掘量は、1日で約12本でした。


機械化後の採掘

大谷石採掘の機械化は、昭和27年(1952年)に石材協同組合内に「機械化研究会」が設けられ、機械が試作されたのが最初です。

その頃になると、人件費が高くなり(石の価格の約7割が人件費)、生産性を向上させるために機械化の研究が本格的にはじめられました。

昭和29年(1954年)、フランス製のチェーンソー裁断機を購入し、これをもとにツルハシで採掘された大谷石を板状に切り、表面の化粧削りをするための機械を完成させました。

採掘機は、昭和32年(1957年)にオートメーション採掘第1号機が完成し、実用化に成功しました。

大谷の全採掘場が機械化されたのは、昭和35年(1960年)頃で、手掘り時代の1955年の年間生産量が24万トンなのに対し、機械化された1960年は45万トンと、約2倍近くにも増産されました。

現在では、最後の仕上げを除くほとんどの工程が機械でできるようになりました。