日光紀行文学
明治時代(めいじじだい)の日光(にっこう)と紀行文学

近代の日光は観光地・避暑地として知られました。
アメリカ人の動物学者モースは明治10年に来日し、大森貝塚(おおもりかいづか)を発見しますが、日光に旅行し、その旅行記を『日本その日その日』(東洋文庫)に書いています。
「日光への旅行、宇都宮(うつのみや)から66マイルを駅馬車で、それからさらに30マイルを人力車で行く旅は、私にいなかに関する最初の経験をあたえた。」
と書き出し、宇都宮から日光への沿道の庶民の生活文化や、日光の寺院や神社の文化について細かく記述しています。

イギリスの女性旅行家イザベラ・バードは、1880(明治13)年にロンドンで『日本奥地紀行(にほんおくちきこう)』(東洋文庫)を出版しました。
その中に、日光への旅行記があり、
「日光には独特の個性があります。これは日光がたいへんに美しく変化に富んでいるというためといいうよりも、むしろ、荘厳(そうごん)な偉観(いかん)、そのゆっくりであるが確実に衰微(すいび)していくさま、また人をけっしてとらえて離さない歴史的宗教的雰囲気のためなのです。」
と書いています。

フランス人旅行家ピエール・ロチは、明治18年と33年に日本を旅行し『秋の日』の中に「日光霊山」を書きました。
緑の湿気の中壮麗な東照宮(とうしょうぐう)は、大自然の中に魔法の杖におびき寄せれられたような様子だと言っています。

芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)は、明治44年ごろに書いた
「日光小品(にっこうしょうひん)」で、大谷川の景色を
「川をはさんだ山は紅葉と黄様とにすきまなくおおわれて、その間をほとんど純粋に近い藍色の水が白い泡を噴いて流れてゆく。」
と描いています。