二荒山神社
二荒山神社はどのような歴史を刻んできたか

宇都宮二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)は、第10代崇神天皇(すじんてんのう)第一皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を祀って(まつって)いると言い伝えられています。
豊城入彦命が天皇の命令により東国の経営のため派遣され、その東国を治めた功績もあり、それ以後豊城入彦命の子孫が東国にとどまって上毛野君(かみつけのきみ)・下毛野君(しもつけのきみ)となり、この地を支配したといいます。

神社に伝わる伝えでは、豊城入彦命の4世孫・奈良別王(ならわけのきみ)が、仁徳天皇(にんとくてんのう)の御代(みよ)に下毛野国司(しもつけこくし)に任じられ、この時、祖先神である豊城入彦命を現在の社殿南方約200メートルの荒尾崎(あらおざき)に祀ったのが始まりと伝えられています。

承和(じょうわ)3年(836年)には、朝廷より従五位下二荒神に正五位下の位を授けたとされ、時代を経るにつれて位も高くなっていきます。

承和5年(838年)に、荒尾崎から現在の臼が峰(うすがみね)に祀りました。

天慶(てんぎょう)3年(940年)には、平将門(たいらのまさかど)が東国で反乱を起こしたとき、これに対抗した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が宇都宮明神に平将門平定を祈り、乱が鎮まったことにさいして、正一位が贈られ藤原秀郷から甲冑(かっちゅう)・太刀・弓矢が奉納されました。

鎌倉(かまくら)時代康平(こうへい)5年(1062年)、源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)父子が奥州(おうしゅう)の阿倍(あべ)氏を討つときに戦勝を祈願し、その調伏祈祷(ちょうふくきとう)の功によって宗円(そうえん)が下野守護職(しもつけしゅごしき)となり、宇都宮社務職(しゃむしき)を兼ねることとなりました。 

以来社務職は、宇都宮氏が代々世襲(せしゅう)することとなり、二荒山神社は「宇都宮大明神(だいみょうじん)」として篤く(あつく)保護されていくことになります。

治承(じしょう)3年(1179年)には、源頼朝(みなもとのよりとも)が平家追討(ついとう)の祈願を行いました。

慶長(けいちょう)5年(1600年)には、徳川家康(とくがわいえやす)が関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)での戦勝祈願(せんしょうきがん)を行いました。