那須疏水
那須疏水はどのようにしてつくられたか

那須野が原の開拓を支えた那須疏水ですが、この疏水には、苦闘の歴史が秘められています。

今は分水にふたがかけられ、その流れを見ることはあまりできませんが、この疏水の流れは大運河建設の夢につながっています。

那須疏水は農業用水として引かれる前に、大運河構想がありました。

那珂川(なかがわ)の水を箒川(ほうきがわ)を通り、鬼怒川(きぬがわ)につなぐ構想で、印南丈作(いんなみじょうさく)・矢板武(やいたたけし)が推進役として力を尽くしました。

しかし、すでに運河の時代ではなく、近代化の代表である鉄道・国道が幅をきかす時代となっていました。


飲用水路づくりの後を受けて、那須疏水は明治(めいじ)18年(1885年)4月15日、烏が森(からすがもり)で起工式が行われました。

5か月後の9月15日、那須疏水の堀に水が流れました。

5か月という工事期間は、モッコとクワしかない当時にとっては、驚異的なスピードでした。

そこには、移住者たちの水へのこだわりがありました。
また、多くの囚人達が疏水工事に働かされたことも、忘れてはなりません。


そして、分水は翌年、第一分水から第四分水まで完成します。

しかし、その水利権は各農場のもので、移住民・農民の手に移るまでには長い年月を必要としました。

(那須疏水の取入口)


昭和4年改築の取入口


昭和51年に改修された頭首工

那須疏水の取入口は、3回改築されています。

明治18年(1885年)に通水したときの最初の取入口は、水門が取入口の出口のところにあったために、まともに土砂が取入口の中に入り、使えなくなったことがたびたびありました。

そのため、明治38年(1905年)に、位置を変えてつくられました。

しかし、その取入口も川床の変化などで使えなくなり、大正(たいしょう)4年(1915年)、最初の取入口の下流につくり、取水がとても良好となりました。

この取入口の水門開閉設備は、洪水の場合破損することが多かったので、水門入口につくり替えました。

これが、取入口としてよく知られている昭和(しょうわ)4年(1929年)の取入口です。

いかに取入口の維持が大変だったかが分かります。


現在は、昭和43年(1968年)より始まった国営那須野が原総合開発事業の一つである改修工事によって、昭和51年(1976年)、近代的な西岩崎頭首工(にしいわざきとうしゅこう)に生まれ変わりました。

この頭首工付近には、1回目と3回目に改築された旧取入口や導水路(どうすいろ)の跡などが、保存され改修されました。

明治18年(1885年)以来、多くの人々の苦労とともに、那須野が原を潤わせ続けた那須疏水の歴史の重みを知ることができます。