長岡百穴
長岡百穴古墳にまつわる4つの民話〔『宇都宮の民話』(宇都宮市教育委員会)より〕

長岡百穴古墳の52の穴には、室町時代(むろまちじだい)の作といわれる観音像(かんのんぞう)が刻まれています。

この百穴と観音様には4つの民話が伝わっています。


①第10代の崇神天皇(すじんてんのう)の皇子でありました豊城入彦命(とよきいりのみこと)が東方征伐(とうほうせいばつ)の途中、長岡の地にこられた時、付近の豪族の強い抵抗にあい、容易に征服できず大激戦になりました。

この戦いで、皇子の主だった家来百人ほどが戦死してしまいました。悲しんだ皇子は長岡百穴に遺骸を手厚く葬ったといいます。


②弘法大師(こうぼうだいし)が大谷(おおや)に来られたおり、これより東方2里ほどのところに長岡という村があり、そこに豊城入彦命の家来衆百人の墳墓があると聞いてさっそく長岡の地を訪れてみました。

すると墳墓は、ツタやカズラが生い茂り荒れ果てていました。

大師は驚き、さっそく雑草を切り払い掃き清め、百人の御霊(みたま)を祀るため露出した各穴の奥の壁に観音像を刻まれました。

そして、長岡百観音寺(ながおかひゃくかんのんじ)を建立し、手厚く弔われ(とむらわれ)ました。


③百穴の観音像には、弘法大師一夜の作という伝承があります。

大師は99体の観音像を彫り終わった時に一番鶏が鳴き、夜が白々と明け始めてしまったため、100体目を刻むことなく立ち去ってしまいました。

里の人達は、未完成の100個目の穴に石の観音像を安置しました。

この観音像は、今も存在し、元観音(もとかんのん)と呼ばれています。


④昔、百穴には百観音寺という立派な寺院があったということです。

しかし、この寺は次のような理由で廃寺になってしまったと伝えられています。3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の時、江戸城(えどじょう)内で諸大名を集めて「長岡百観音寺」の由来についての芝居が上演されました。

家光は、宇都宮城主に観音寺について尋ねましたが、城主は領内にそのような寺はないと答えてしまいました。

宇都宮に帰った城主は、家老から長岡に百観音寺が存在することを聞いて驚き、一夜のうちに寺を焼き払うと共に、村人に観音寺のことは口外してはならないと申し伝えたといわれています。