二宮尊徳
尊徳はどのようにしてききんを乗り越えたか

1830年代、天保(てんぽう)のききんと呼ばれる凶作が、2度にわたって全国をおそいました。
尊徳はこの大凶作を前もって予想し、村民を救ったという話は有名です。

『報徳記(ほうとくき)』によると天保4年(1833年)、初夏に口にしたなすが秋なすの味だったのでききんを予測したということが伝えられています。
しかし、実際には尊徳は、ききんの数年前から凶作への備えを考え、ききんが起こる前年の天保3年(1832年)、畑の年貢を免除する代わりに、貯えのために畑のほぼ4分の1に稗(ひえ)を栽培することを命じています。
さらに翌年には、現在貯えてある穀物を他へ売り払うことを禁じ、1人につき雑穀5俵を貯えることを村民に約束させました。
こうして桜町領(さくらまちりょう)は天保のききんを乗り切り、尊徳は村民の信頼を集めました。