宇都宮空襲
宇都宮空襲はどのように行われたか

昭和(しょうわ)20年(1945年)2月10日、群馬県(ぐんまけん)の中島飛行機太田製作所がB-29爆撃機部隊の空襲を受けました。

この空襲では、足利市(あしかがし)にも多量の爆弾が投下され、30人を超える死者が出ています。

太田爆撃後のB-29編隊は、宇都宮上空を東に進んで太平洋に抜ける途中で、残っていた爆弾と焼夷弾(しょういだん)を平石村(ひらいしむら)の雷電神社(らいでんじんじゃ)付近に投下していきました。

それは、多くの宇都宮市民が、B-29と空襲の恐ろしさを初めて目の当たりにした瞬間でした。

同年2月16日、宇都宮にある施設を攻撃目標とした空襲は、陸軍宇都宮飛行場に対するものが最初でした。

このような、米軍による飛行場・軍需工場・交通機関への攻撃は終戦直前まで何度もくりかえされました。

同年7月12日、午後11時19分、多くの市民が寝静まる中、宇都宮空襲が開始されました。

厚い雨雲の間から投下されたのは、M47焼夷弾・E46収束焼夷弾でした。

攻撃は約2時間20分の間続き、市内に大きな被害をもたらしました。

この日投下された焼夷弾だけでも、当時の宇都宮市民の人口にほぼ相当し、一人当たり1個以上の焼夷弾が投下されたことになります。

※焼夷弾(しょういだん)・・「広範囲を焼き払うことを目的とした爆弾。内部には目標を燃やすための化学物質や油脂類が詰め込まれています。