宇都宮空襲
空襲はどのような被害をもたらしたか


昭和(しょうわ)20年(1945年)7月12日
深夜の空襲による宇都宮市の被害概要
(「うつのみやの空襲」宇都宮市教育委員会作成より)

翌日、宇都宮市民が目にしたのは、辺り一面の焼け野原でした。

死者数620名以上、負傷者数1128名以上を出すという大きな被害を受けました。

特に激しかったのは市街地です。

この空襲は、古い町並みと貴重な文化財や学校などを焼失させ、市民生活に大きな打撃と混乱を与えました。


「空襲時の市民の体験」

「 ・・・逃げる途中、火傷をした手や腕の皮膚がだらっと垂れ下がってむけているのを、持ち上げ走ってきたが、痛みは感じなかった。しかし、ほっと一息ついたとき、火傷の傷の焼けるような痛みが、急に襲ってきた。私は、田んぼの隅の水のある所に入って、燃え上がる市内の光景を眺めながら、じっとその痛みに耐えていた。・・・」
(「うつのみやの空襲」宇都宮市教育委員会作成より)


戦災後の二荒山神社前
(「うつのみやの空襲」宇都宮市教育委員会作成 より)

爆弾や焼夷弾の中には、不良品や、正しく落下しなかったもの、やわらかい田畑に落ちて、そのまま埋まってしまった、いわゆる「不発弾」があります。

こういった、不発弾により、空襲以降に亡くなったり、指や腕を失うなどのけがを負った人も少なくありませんでした。

特に、武器の知識にうとい子どもたちが興味本位で触れてしまい、被害にあうことも多かったのです。

また、空襲の恐怖や肉親を失った悲しみは、人々の心に大きな傷跡を残しました。