矢板武と印南丈作
二人はなぜ那須疏水(なすそすい)をつくろうと思ったのか

(1)那須野が原(なすのがはら)とはどのような場所だったか
那須野が原とは、現在の那須塩原市(なすしおばらし)・大田原市(おおたわらし)にまたがる原野であり、4万ヘクタールといわれるとてつもなく広い原野が、石ころだらけの荒れ地として広がっていました。

雨が降ってもすぐに地中に水がしみこんでしまう砂や小石の土地で、水は地下40mもの深いところにあり、人や作物に大切な水が不足していました。


(2)那須疏水完成までの二人の苦労
当時、那須野が原は北海道(ほっかいどう)をのぞいて我が国最大の原野でした。
二人はここを開拓するために、疏水を作る計画を立て、工事の資金を調達するために国の役所に向かいました。
自分たちで費用を出してまでも工事を実施しようとする二人の熱心)な思いが通じて、国から費用が出ることになり、明治(めいじ)15年(1882年)に飲み水用の水路を完成させました。
水路ができても水がしみこんで途中までしか流れなかったり、工事には多くの資金が必要であったりと大変苦労しましたが、最後まであきらめずに努力しました。
これが本格的な「那須疏水」を作るきっかけとなり、明治18年(1885年)に西岩崎(にしいわさき)から千本松(せんぼんまつ)までの16.3kmの水路が完成しました。

この工事は1日平均115mというスピードで進み、わずか5か月という短い期間で完了しました。
那須疏水が完成したとき、人々は涙を流し、手を取り合って喜んだといいます。