矢板武と印南丈作
印南丈作の一生をさぐってみよう

日光市(にっこうし)に生まれ、12歳のとき生家から離れ、寺につかえながら学問に励みました。
19歳になったとき、郷里の日光を出て現在の大田原市(おおたわらし)佐久山(さくやま)に移りました。
そこで、印南丈七(いんなみじょうしち)の養子になり、丈七の長女トメと結婚しました。
安政(あんせい)元年(1854年)、23歳のとき、養父丈七に替わって町年寄役につきました。

その後、戊辰戦争(ぼしんせんそう)で得た人脈を通じて、活動の場を拡大していきました。
県の要職を歴任した後、明治(めいじ)10年(1877年)から矢板武(やいたたけし)とともに那珂川(なかがわ)から鬼怒川(きぬがわ)にいたる運河計画(未完)に尽力しました。
明治13年(1880年)には矢板武とともに那須開墾社(なすかいこんしゃ)を組織して、那須野が原(なすのがはら)の開拓に尽力し、明治18年(1885年)に那須疏水(なすそすい)の開削を実現させました。
その後、57歳で一生を終えました。