小杉 放菴
小杉放菴は画家としてどのような業績を残したのか

(1)西洋画と日本画の融合
「水郷(すいごう)」での受賞の2年後にヨーロッパへと渡り、パリを拠点にほぼ1年間、本場の油絵を学びます。
当時のヨーロッパは、それまでの写実的な絵画を徹底的に破壊したピカソやマチスが登場したころです。
ヨーロッパでは特に、シャバンヌの構図や独特の淡い色彩に言いようのない安らぎを感じ東洋を想ったのです。
はるかヨーロッパの地で得たものは、すべて東洋へと向かっていきました。
ヨーロッパからの帰国して以来、日本画と洋画をいかに融合するかということに悩み続けました。
次々と作品に着手し、いかに西洋の油絵で東洋の物語を描くかに取り組み、中国の故事などを表現しました。
こうした作品を「油絵の日本画」と呼ぶ人もいます。
大正(たいしょう)14年(1925年)7月6日、東京大学の安田講堂竣工(やすだこうどうしゅんこう)にあたり、作品制作の依頼を受けて3か月で大壁画を完成させました。


(2)未醒(みせい)から放菴へ
大正末期(たいしょうまっき)から昭和初期(しょうわしょき)には、墨と和紙が画材の中心となり、日本画にのめり込んでいきます。
このころ雅号(がごう)を「放庵」(後に「放菴」と記す)と変え、作風はより自由になっていきます。
放菴の人物画には、それまでの日本画が持っていた気位の高さがなく、素朴で庶民的であり、親しみやすい表情で、その独特の顔つきは放菴自身の自画像とも言われています。


(3)放菴の晩年
戦時中疎開した新潟(にいがた)の赤倉(あかくら)で仙人のような余生を送り、西欧文化と東洋文化の違いを認めながら日本画の独自性を追求しました。
昭和39年(1964年)、小杉放菴は世俗の栄誉を一切受けず、老衰のため没します。

※ 小杉放庵の作品は、栃木県立美術館のホームページで見ることができます。