鑁阿寺
鑁阿寺はどのような歴史を刻んできたか

(1)鑁阿寺の起源

足利義兼(あしかがよしかね)は、足利荘内の館に建立された持仏堂に、伊豆国走湯山(いずのくにそうとうざん)から理真上人朗安(りしんしょうにんろうあん)という僧侶をまねいて開山とし、ここに足利氏の氏寺として「堀内御堂(ほりうちみどう)」が生まれました。

義兼の子、義氏(よしうじ)は、亡父の法名、鑁阿寺殿(ばんなじどの)にちなみ「堀内御堂」を鑁阿寺と名前を改めるとともに、大日如来を本尊とする大御堂を中心に寺内堂塔(どうとう)を建立し、年中行事などを定めました。

義兼による「堀内御堂」の創建は源頼朝(みなもとのよりとも)が父義朝(よしとも)の墓所とした鎌倉勝長寿院(かまくらしょうちょうじゅいん)〔南御堂(みなみみどう)〕にならったものです。


(2)その後の歴史

鎌倉時代(かまくらじだい)から南北朝時代(なんぼくちょうじだい)にかけては、寺院内に12の別坊があり、6院ずつに分かれ法会(ほうえ)を行っていました。

12院の中の一つである千手院(せんじゅいん)が一山の学頭を務める制度が確立しました。南北朝時代の終わりごろからは、鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の支配下に置かれたと考えられます。

また、鑁阿寺の経済的基盤は、足利荘内の寺領でありました。

江戸時代(えどじだい)には、歴代将軍から朱印(領地)をもらい、5代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の生母桂昌院(けいしょういん)の保護を受けたことはよく知られているところです。

明治維新後(めいじいしんご)、朱印地は没収され、12院は廃止されるなど一時衰えますが、住職であった山越氏(やまこしし)3代の努力と信徒の崇敬によって次第に復旧し現在に至っています。

鑁阿寺の正式名称は金剛山仁王院鑁阿寺(こんごうざんにおういんばんなじ)といい、創建当初から高野山真言宗(こうやさんしんごんしゅう)・醍醐派(だいごは)そして豊山派(ぶざんは)の末寺(まつじ)でありましたが、第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)後の昭和(しょうわ)26年(1951年)、5ヶ寺を率いて独立し、現在は真言宗大日派(しんごんしゅうだいにちは)の本山となっています。

現在では、鑁阿寺は「大日様」として親しまれ、初詣だけではなく、なにかにつけてお参りする場所で、市民の心のより所です。