濱田庄司
濱田庄司はどのようにして陶芸家になったのか

(1)陶芸家を志す
・幼いころから絵が何より好きである一方、生活の道具についても大きな興味がありました。
・生活に役立つよい工芸を作ることを心に決めたころ、ルノアールの言葉に大いに勇気づけられ、陶芸家を志します。
・若いころから陶芸家に弟子入りした人たちとの遅れを補うため、科学や物理、高等数学も勉強して土台から積み上げ、絵や書も先生について勉強します。


(2)東京(とうきょう)で基礎科学を学ぶ
・大正(たいしょう)2年(1913年)、板谷波山(いたやはざん)が製陶(せいとう)を教える東京高等学校(現在の東京工業大学)の窯業科(ようぎょうか)に入学しますが、窯業科といっても実際の製陶に関係する科目はほとんどなく、主に基礎科学を学びます。


(3)京都(きょうと)で道を見つける
・東京高等工業高校を卒業した後、先輩の河井寛次郎(かわいかんじろう)が勤めていた京都市立陶芸試験場(きょうとしりつとうげいしけんじょう)に行き、競うようにして染め付けの技術を研究します。
1万種以上のうわぐすりを試作しました。


(4)イギリスで仕事を始める
・大正9年(1920年)、バーナード・リーチの帰国に同行し、イギリスのセントアイヴィスに窯を作り、作陶(さくとう)しました。
・関東大震災(かんとうだいしんさい)のあった大正12年(1923年)、ロンドンで初の個展を開き、大成功を収め、帰国します。


(5)沖縄(おきなわ)で学ぶ
・日本に帰り、益子(ましこ)に住んだものの5年間は自分の窯を持てなかったので、秋から冬の間は沖縄の壷屋という窯で仕事をし、陶器作りのあり方を学びます。


(6)民芸運動を展開する
・美学者、柳宗悦(やなぎそうえつ)を中心に河井寛次郎らと日本各地の日用雑器に興味を深め、そうした民衆の工芸を「民芸」と呼び、民芸の中に美を見いだす「民芸運動」をはじめます。
・常に民芸運動の中心にあって、各地の実用工芸品の研究・指導にあたりました。
・焼き物を飾り物から実用品に再び復帰させました。