田中正造
田中正造は、足尾鉱毒問題の解決のためにどんな努力をしたのか

(1)国会で演説
被害状況を調査した田中正造(当時51歳)は、あまりの被害のひどさに、鉱毒の解決のために、自分は一生をささげようと決心しました。
そして、翌年、国会で、「政府は、すぐに銅の生産をやめるように命令すべきである。」と演説しました。
これは、我が国の公害問題を取り上げた最初の出来事でした。
しかし、政府は、富国強兵策(ふこくきょうへいさく)など国の事情もあり、被害の原因が、鉱毒によるものかどうかわからないとして問題にしませんでした。


(2)被害状況の調査を専門家に依頼
正造は農科大学(現在の東京大学農学部)の助教授に頼んで原因を調査してもらったところ、「銅山から流れ出る水には、銅・鉄分・硫酸が非常にたくさん含まれている。それが原因で動植物に被害が出る。」という結果が出ました。
政府もその結果を受けて、ようやく鉱毒を起こさないために新しい機械を取り付けるよう命令しました。
ところが、その機械では、鉱毒をくい止めることはできませんでした。
その後も正造は、何度も国会で訴えましたが、鉱毒問題は一向に解決しませんでした。


(3)明治天皇(めいじてんのう)に直訴
農民が願い出ても、国会で訴えてもだめだと知った正造は、明治天皇への直訴しかないと、命がけの覚悟を決めて議員をやめました。
明治34年(1901年)12月、国会開会式の日、正造は黒の羽織、はかま姿の正装で被害の様子を書いた直訴状を高く差し上げながら、明治天皇の乗る馬車めがけてかけよりました。
正造は、すぐに警官に捕まってしまいました。
しかし、この事件がきっかけとなって世論が盛り上がり、とうとう、政府は鉱毒調査会を作ることになったのです。
この調査会が示した計画は、渡良瀬川(わたらせがわ)・思川(おもいがわ)・巴波川(うずまがわ)の合流する地点の谷中村をつぶして遊水地を作り、洪水を防ぐというものでした。
しかし、これでは本当の解決にはならないため正造たちはこのやりかたに反対しました。
何回も国や県に訴えましたが、そのたびに取り下げられ、明治44年(1911年)には谷中村に遊水地がつくられました。
昭和(しょうわ)48年(1973年)、日本の公害問題の原点といわれる鉱毒問題を起こした足尾銅山が閉山となりました。
田中正造は、この問題を解決するために、73歳で息をひきとるまで身をささげて運動を展開し、正義を貫き通したのです。