小山氏城趾
中久喜城(なかくきじょう)〔岩壺城(いわつぼじょう)〕


城趾碑

久寿(きゅうじゅ)2年(1155年)、小山政光(おやままさみつ)によって、先祖藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が天慶の乱(てんぎょうのらん)平定時に平将門(たいらのまさかど)調伏のために牛頭天王(ごずてんのう)を祀った地に築城されたといわれています。

中久喜城は、小山氏の持つ他の城館からはやや離れた地に置かれています。

近くには結城(ゆうき)と小山を結ぶ街道があり、もともとはこの街道を監視し、小山領と結城領を結ぶ「つなぎの城」だったと考えられています。


現在の中久喜城は、JR水戸線により南北に二つに分断されていて、北側には長い土塁(どるい)が残されています。

直線で200mぐらいですが、土塁の上は完全に住宅街で、土塁以外の遺構(いこう)は見当たりません。南側の遺構はよく残っていますが、私有地でもあるため整備の手がついておらず、本丸跡は畑になっています。

土塁がL字型に走っている様子や、櫓(やぐら)台のような土塁もあり、虎口の様子も確認できます。

南側は水田に囲まれているため、外からはただの林のように見えます。