小高生へ(9)

青春時代の出会いと孤独について

 「校長室より」のページから、生徒の皆さんへメッセージを送っていきたいと思っています。感想や要望がありましたら、気軽に声をかけてください。

 「青春」のイメージとは、どういうものでしょうか。多くの文学作品、マンガ、映画、ドラマ、アニメなどによって、青春は繰り返し描かれてきました。これは、青春時代が人生の他の時期とは違う特別な一時期であり、誰にとっても忘れがたい時間だからにちがいありません。皆さんは、青春を描いた作品として何を思い浮かべますか?
 辞書では、「人生の春にたとえられる若い時代」などと述べていますが、「若くて元気」というだけでくくりきれない、多くの側面を「青春」はもっています。人生は常に複雑かつ多様であり、青春時代も複雑かつ多様だと私は考えます。
 とはいえ、「純粋」や「ひたむき」という言葉は、人生の中でも青春時代にこそ最も似つかわしいものかもしれません。「思い込み」の激しさは、往々にして青春時代にありがちであり、「若さ」の特権のようにとらえられています。私の好きな音楽家に、ジャクリーヌ・デュプレというイギリス出身のチェロ奏者がいます。1987年に42歳という若さで病のためにこの世を去りましたが、16歳のデビュー当初から大変情熱的な演奏をしていました。そのあまりに激しい没我的な演奏について、彼女の才能を見出した指揮者のジョン・バルビローリは次のように語りました。「彼女の演奏を激しすぎるという人がいるが、その考えは違う。年をとれば、誰でも落ち着いてしまう。若い頃は過ぎたるがよいのだ。」バルビローリのこの言葉は、「青春」の何たるかを語っているようにも思われます。
 「何か」に自分の存在を懸けて、力の限り走り抜ける「ひたむきな激しさ」が青春時代のひとつの典型であるとしたら、高校生が部活動に懸命に取り組む姿は、まさしく「青春」そのものと言えるでしょう。部活動の大会に応援に行くと、試合に負けて大泣きに泣き崩れる生徒を見ることがあります(本校生だけでなく他校生も)。負けて悔しくてたまらない気持ちなのだろうと思いますが、純粋な大粒の悔し涙を流せるひたむきさについ心打たれ、少し羨ましい気持ちにとらわれたりします。悔しかったり、悲しかったりする時には、思いきり泣いた方がいいと私は思います。そうした方が、自分の感情を受け入れ、認めて、心を整理して、次の段階に向かう準備ができるのではないでしょうか。泣き崩れる友を慰め、励まし、肩や背中を貸す仲間たちの様子にも感動してしまいます。そういう「純粋」な人間関係は、青春時代を過ぎて年齢を経るとともに、残念ながら得難いものになってしまいがちです。だから、高校生の皆さんには今の人間関係を大切にして、互いの存在を尊重し、互いに思いやり合ってほしいと思います。高校時代の出会いが、一生続くような「友との出会い」になることがきっとあるはずです。
 同時に、青春とは「孤独」な時期でもあります。勉強や部活動で、いつも望むような結果が出せるわけではありません。上位の成績を手にするのは一部の人に限られており、勝ちたい、レギュラーになりたいと思っても、全ての人がその目標を達成できるわけではありません(一方で、勝者には「勝者の孤独」があると想像します)。親友がほしいと願いながら、なかなかできないという場合もあります。「誰も自分をわかってくれない」という気持ちにとらわれ、自分の影を踏みながら帰る時もあると思います。でも、そんな孤独な時間が、皆さんを「思いやりのある大人」に成長させる時間でもあることを知ってほしいと私は考えます。寂しさや悔しさを感じたことがない人は、他人の寂しさや悔しさを理解できないからです。今、孤独であったとしても、その孤独を「他者への思いやり」に昇華して、誠実に生活していったならば、あなたの優しさを必要とし、あなたとともに生きたいと願う人が、必ず現れます。青春期の「孤独」は、大人へ成長するために誰もが通過するステップなのです。
 いつの日か、「自分はもう大人になってしまった」、「自分の青春時代はもう過ぎ去った」と実感する時が来ます。でも、皆さんはまだ青春時代にあります。二度と戻らない青春の日々を大切に、友人を大切に、自分を大切に、精一杯生活してください。