校長室より

小高生へ(4)

大学入試で必要ないから勉強しない?

 ホームページの「校長室より」のページから、生徒の皆さんへメッセージを送っていきたいと思っています。感想や要望がありましたら、気軽に声をかけてください。

 大学入試は本当に大変です。難関大の入試は、部活動にたとえるなら全国大会で戦うようなものです。勉強しなければならないことが多くて、ともすれば受験科目を絞って、「入れる大学でいいや」と妥協したくなるかもしれません。でも、安易な妥協は禁物です。目標を下げて、楽な方向に逃げてしまうと、努力しようという意気込みも薄れて、実力を伸ばすことが難しくなってしまいます。結果として、「入れる大学」の合格すら遠のいてしまうなどということもあります。
 ところで、「大学入試で必要ないから勉強しない」というのは「正解」なのでしょうか。生徒の皆さんには、目の前の損得勘定だけではなく、「長い目で見た場合の正解」があることもわかってほしい気がします。「学ぶ意味」とは、大学入試だけで決まるものではないと思います。私たちの人生は、大学入試で終わるわけではないのですから。
 『走れメロス』や『人間失格』の作者である太宰治のことは、皆さんも知っていますね。太宰の書いた小説『正義と微笑』の中で、主人公の少年が通う学校の「黒田先生」は、生徒たちに「勉強」について次のように語ります。
 学校の勉強を、「卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだ」という考えは「大間違い」であり、「日常の生活に直接役に立たないような勉強」こそが、「人格を完成させる」。「覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということ」である。「学ぶ」ことは「心を広く持つ」ことにつながり、「愛するという事を知る事」である。そして、知識が失われても(忘れてしまっても)、「勉強の訓練の底」には「一つかみの砂金」が残り、それこそが「貴い」と。
 この勉強の底に残る「一つかみの砂金」とは何でしょうか。一生懸命に学んで、学んだ知識を忘れた後も残るものとは何でしょうか。例えば、芥川龍之介や夏目漱石の小説、古文の「源氏物語」等を読んでも、高校を卒業すれば内容は忘れてしまうかもしれません。しかし、優れた文学に触れることで、人間の弱さ、どうしようもなさ、愛おしさを知ることができます。そのような人間理解は、作品そのものは忘れてしまっても、読んだ人の中に何らかの形で残るものだと思います。数学で様々な問題の解き方を覚えても、職業的に必要としない場合には、その記憶は薄れていってしまうものかもしれません。でも、論理的な思考力や判断力という「考え方の枠組み」は、学んだ人の中に残るのではないでしょうか。高校で学ぶ多くの教科・科目のどれをとっても、他の教科にはない「思考の枠組み」があり、それを蓄積することが私たちの「生きる力」になっていくのだと考えられます。私たちの内面に思考の枠組みの「引き出し」が多ければ多いほど、それだけ「多様で複雑な人生の諸問題」に対応できる力があると言えます。学ぶ意味は唯一の正解があるわけではなく、それぞれが見つけていくものかもしれませんが、私たちが日々学ぶことには「直接に役に立つかどうか以上の意味」があり、それこそが学んだ後に残る「砂金」なのだろうと思います。(太宰治というとデカダン=退廃主義のイメージが強いかもしれませんが、「黒田先生」の言葉は立派な教育論です。)
 「学ぶ」=「カルチベートされる」=「心を広く持つ」=「愛することを知る」という考え方は、「教養(リベラル・アーツ)の大切さ」について端的に述べているように感じます。「カルチベートcultivate」という単語には、「(土地を)耕す、耕作する」、「(才能・品性などを)養う、磨く」、「啓発する、教養をつける」等の意味があります。皆さんは勉強を進めていく中で、「自分の脳が耕されている」ような感じ、「自分の感覚もしくは世界の見方が広がった」ような感じをもったことはありませんか。昨日までは見えなかったものが見えるようになったような感じ、さっきまでできなかったバックハンド(テニス)がある時からできるようになったような感じといったらいいでしょうか。私たちを囲む世界は混沌(カオス)かもしれませんが、多くの教科・科目を学んでいく中で「ものの見方」の引き出しを自分の内面に増やしていけば、様々なものが見えると同時に(その時々にふさわしい)秩序をもった世界として見ることができる(=理解できる)ようになるはずです。そして、その深い理解は「愛すること」につながっていきます(逆を言えば、理解できないものを愛することは難しいということになります)。
 「学ぶこと」は「(世界を)理解すること」。「学ぶこと」は「心を広く持ち、愛すること」。多くを学ぶことは、より愛せるようになること。だから、「学びの意味」は大学入試だけでは測れないのです。

小高生へ(3)

誰のために学ぶか?

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 毎日の勉強は大変ですよね。「高校の勉強なんて楽勝」という人は、少ないはずです。やらなくてはいけない量が多い時には、「もういいや」と投げ出してしまいたくなることもあると思います。偉大な先人たちが積み上げてきた「知の遺産」について学ぼうというのですから、大変なのは当たり前かもしれません。「いったい何のために、こんなことをしてるんだろう」、「誰のためにやってるんだろう」という疑問の思いが、心の奥からわいてきませんか? 高校時代の私は、いつもそういう疑問を胸のうちにくすぶらせていました。
 ここで、一人の音楽家について紹介したいと思います。この方は女性ヴァイオリニストです。私とほぼ同年代の方ですが、私が子どもの頃にテレビに出ていて、ヴァイオリンの「天才少女」として紹介されていました。少し強気な表情をした彼女がヴァイオリンを見事に弾くのをテレビの画面越しに見ながら、世の中にはこんな凄い少女がいるのかと、私は別世界の人を見ているような気持ちでいました。
 彼女は2才からヴァイオリンを始めたそうですが、10才の時に先生の勧めで大きなコンクールに挑戦することになります。そして、猛練習を積み、見る間に上達し、周囲を驚かせます。その年のコンクールは惜しくも2位でしたが、翌年には見事に優勝し、一躍「天才少女」として注目を浴びます。
 しかし、「天才少女」という賞賛の陰で、嫉妬やいじめを受け、学業との両立に悩み、次々と設定される高いハードルに苦しんだそうです。高校時代には、天才であり続けるための圧力に身体と心が悲鳴をあげていたといいます。そして、遂にはヴァイオリンをやめてしまいます。
 大学は文学部に入学し、大学で哲学等の講義を聴きながら、自分探しをしていた彼女は、ふとした縁でボランティアを手伝うことになります。そして、ホスピス訪問で、一人の末期がんの患者さんが、最後に彼女の演奏を聴きたいと願っていることを知らされ、戸惑いながらその方をお見舞いし、数年間全く触れていなかったヴァイオリンを手に取りました。なんとか演奏はしたものの、思うように指が動かず、かつてのような音色を出すことはできませんでした。
 「ありがとう。本当にありがとう。」患者さんは涙ながらに、繰り返し感謝の言葉を口にしたそうです。
 「こんな演奏に感謝の言葉をいただいて申し訳ない。ヴァイオリンをやめずに続けていればよかった。」そう思った彼女は、その日からヴァイオリンの練習を再開しました。
 ただ一人の聴き手の、心からの感謝の言葉が、壁にぶつかっていた一人の音楽家に「音楽の人生における意味」を思い出させ、音楽の道へと引き戻したのです。この方は、今も人々に音楽を届け、感動を与えるヴァイオリニストとして活動を続けています。
 私たち人間は、社会的な存在であり、自分以外の他者と関わりながら、日々生活しています。そして、互いに様々な影響を与え合いながら、厳しい競争原理の中で生きています。そこには必然的に、「自分のために生きるか」、「誰かのために生きるか」という問いが生まれてきます。「自分のために生きる」ことと、「誰かのために生きる」ことが、完全に一致するとしたら、それは最も幸せなことかもしれません。しかし、現実の競争社会では、私たちは「自分のため」を優先しなければならない場面も多いと思います。でも、「自分のため」だけでは、本当の喜びを得ることは難しいのではないでしょうか。上に紹介したヴァイオリニストの方が音楽の道に戻ったのも、自分以外の「誰かのため」にいい演奏がしたいと思ったからです。
 様々な職業に就いている方々の口から、それぞれの仕事のやりがいについて、共通する話を聞いたことがあります。それは、「自分の仕事が誰かの助けになった」、「誰かの生活をよりよい方向に変えることにつながった」ということです。私たちは、「自分のため」に生きているかもしれませんが、同時に「誰かのため」になることに取り組み、自分の存在が誰かの喜びにつながることを望む思いもあります。大切なのは、「自分のため」と「誰かのため」のバランスではないかと考えます。「自分」のことばかりを思っていると、時に失敗を恐れて力を存分に発揮できないこともあります。
 皆さんが日々学んでいるのは、「自分のため」であるかもしれませんが、「誰かのため」でもあると私は考えています。複雑で先の予想が難しい現代社会は、多くの課題を抱え、私たちは様々な事情で悩んだり苦しんだりしています。私たちは、お互いに相手の悩み・苦しみを理解しようと努めて、お互いを尊重しあい、お互いに思いやりあって生活することが大切です。そして、互いに知恵を出し合い、少しずつでもこの社会をよりよいものにしていこうとすることが大切です。そのために、皆さんは日々学んでいるのです。
 小高生は、人への思いやり・気遣いがあって、心優しいと感じています。高校での学習は、学ぶべきことが多くあって、けっして楽ではありませんが、その学びによって培った力が、社会で生かされる時が必ずあるはずです。心優しい皆さんの存在が、誰かの力となる日がきっとあります。どうか、自らの「学び」の意味について、思いを巡らせてみてください。

小高生へ(2)

ピンチはチャンス!! 負けるな、小高生

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 私たちが生活していく中で、「困ったなあ」というピンチに出会うことは避けがたいかもしれません。できることならピンチにはぶつかりたくないというのが正直な思いかもしれませんが、同時に「ピンチはチャンス」というのも正しいかもしれないと思います。
 「ピンチはピンチでしょ」と突っ込みたくなる人もいるでしょうが、歴史を振り返れば「ピンチ」を「チャンス」に変えて成功した事例は、数多く見られます。むしろ「チャンス=チャンス」の成功例よりも、「ピンチ→チャンス」の成功例の方が多いかもしれません(そういう事例はドラマチックだから取り上げられやすいという面もありますが)。成功者の多くは、才能に恵まれると同時に、幾多の困難を乗り越えてきた人たちです。才能があるだけで(困難を克服する努力なしに)成功した人は、いないのではないでしょうか。
 有名な映画俳優(同時に、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家)であるチャップリンの幼年時代は、チャンスどころかピンチだらけでした。両親は舞台人でしたが、父はアルコール依存症で、母は心の病を抱えていました。やがて両親は離婚し、子を引き取った母は病気で入院し、幼いチャップリンは救貧院で生活したりしていました。生きていくために、チャップリンは食品雑貨店のお使い、診療所の受付、豪邸のボーイ、ガラス工場や印刷所の工員など様々な仕事をします。チャップリンの映画には、貧しい労働者、心優しきホームレス、傲慢な金持ちなどが登場し、ユーモア(笑い)とペーソス(涙)が交錯する人生のドラマが描かれますが、これは幼年時代の波乱多き経験があってこそ可能だったと思われます。ピンチだらけの幼年時代が、チャップリンの名作映画を生み出す源泉となったのです。(チャップリンの映画は、絶対観る価値があります。お勧めは、『ライムライト』、『街の灯』、『モダンタイムス』、『独裁者』、『殺人狂時代』など多数。漫画家の手塚治虫は、チャップリンの映画には「全てがある」と言っています。)
 私たちは、しばしば「思い込み」にとらわれます。「もうだめだ!」とか「絶対無理!」とかいうように。しかし、自分ではそう思っても、他の人から見たり、客観的に見たりしたら、「そんなことはないよ。」ということがあるかもしれません。私たちの生活は、事実と、その事実をどう受け止めるかという意識(思い込み)によって成立しているのではないでしょうか。同じ事実に向き合っても、「ピンチだ。もうだめだ!」と思ってしまう人と、「何とかなる。これはチャンスだ!」と思う人がいるとしたら、道が拓けやすいのは後者だろうと想像できます。誰かから注意を受けた場合に、「うるさいなあ。どうせ自分はできないよ。」と考えるのと、「アドバイスをもらった。ありがたい。」と考えるのとでは、その後の結果がきっと変わってくるはずです。
 「苦労なんかしたくない」、「ピンチになんかなりたくない」と誰でも思っているかもしれませんが、ピンチのない人生なんてこの世にないんじゃないでしょうか。スポーツの醍醐味のひとつは、いかにピンチを乗り越えるかにあると思います。人生の醍醐味も同じかもしれません。ある程度の年月を経て懐かしく思い出すのは、苦労を乗り越えたことだったりします。もしかしたら、苦労を乗り越えるって、「人生最高の楽しみ」なのかもしれません。悩みや苦労が全くない人よりも、「人生いろいろ」で苦労や苦難がありながらも、自分自身を大切にして朗らかに生活し、自分以外の人にも親切に接して、互いを尊重し合える人の方が、魅力的ではないでしょうか。苦労やピンチは私たちにとって成長のチャンスであり、苦労やピンチを乗り越えることはこの上ない喜びであり、苦労やピンチこそが人間性を高め、その人の「人としての陰影」を深めてくれるのだと思います。
 ピンチは飛躍へのチャンス。ピンチに負けるな、小高生! いつも応援しています。

小高生へ

「新年度=学びのスタート」「学びの意味とは何か」「優しく、強く」

 令和6年度が始まりました。生徒の皆さんは、この一年をどんなものにしたいと思っているでしょうか。

 4月8日の始業式では、校長式辞の中で2011年に起きた東日本大震災の2か月後に、新聞に掲載された人生相談についてお話ししました。相談者は女性の大学生の方です。その方は、東日本大震災当日、祖母と坂道を上って避難していました。ところが、祖母は「これ以上走れない」と言って座り込み、背負って行こうとする女性の背中に乗ることを強く拒否し、「行け、行け」と怒ります。女性は祖母に謝りながら、一人で逃げました。地震から3日後、祖母は遺体で発見され、「気品があって優し」く「私の憧れ」だった祖母の遺体が、体育館に「魚市場の魚のように転がされ」ているのを、女性は見ることとなります。そして女性は、祖母を見殺しにした自分を「一生呪って生きていくしかない」のかと思い、自分を責め続けているという相談です。この相談に対して、回答者の心療内科医は、手紙を読みながら涙が止まらなくなったと述べ、相談者が祖母を見殺しにしたのではなく、祖母は自分の意志で相談者を助ける道を選んだのであり、「誇りをもって生を全うした」はずだから、相談者は祖母の意志を受け継ぎ、生き抜いてほしいと励ましています。
 新聞に掲載された、この相談を読んだ時、私は「こんなにも深い悲しみがあるのか」と、胸が詰まる思いにとらわれました。相談者の方が、今はその悲しみを乗り越え、幸せな毎日を過ごされていることを願わずにはいられません。
 今年の元日にも、能登半島を中心とする大きな地震が発生しました。犠牲者の方々のご冥福をお祈りするとともに、いまだ復興の途上にある被災地の住民の皆様の生活が一日も早く改善されることを願いたいと思います。
 私たちの日常生活の中にある、思いどおりにいかないこと、辛いこと、苦しいことは、数え上げればきりがないかもしれません。でも、負けてはいけないと思います。少しずつでも前に進んでいこうとすることが大切です。そして、この世の中にある様々な悲しみや苦しみをなくしていけるように、私たちは学び続けていかなければなりません。
 私たちは、お互いを尊重し、お互いを大切にし合い、お互いに親切にし合い、お互いに助け合って生活していかなければなりません。切なく、寂しいことがあって、そのことを乗り越えようとする時、互いに寄り添い合う「優しさ」が「生きる希望」につながります。そして、高校時代に多くの教科・科目を懸命に学ぶことをとおして養う「思考力」・「物事の見方」・「考え方の枠組み」は、絶対的な正解のない「人生の問い」に対峙し、「自分の答え」を見つけるうえで役立つ「生きる力=強さ」につながります。私たちの日々の学びは、競争に勝つよりも、互いに助け合い、高め合うための学びととらえたいと考えます。皆さんには、高校生活の中で、互いを認め、励まし合う健全な友人関係を築き、一日一日を大切にし、「他者への優しさ」と「負けない強さ」を培っていってほしいと思います。

 新しい1年が、皆さんにとって素晴らしい1年となることを心から願っています。健闘を祈ります。

球技大会

学校祭の代替行事として、球技大会を実施しました。大会スローガンの中に「NO密を意識しながらも濃密な思い出を!」とあるように、新型コロナウイルス感染症と熱中症との両方に十分に配慮しながらの競技や応援となりましたが、今年度初の全校生徒そろっての行事でもあり、思い出に残る球技大会になったのではないかと思います。

 
 
  

第3学年進路懇談会

今日の3年生のLHRは、卒業生を迎えての進路懇談会でした。AO、推薦、一般とそれぞれの入試で希望する大学に合格した先輩たちの話に、進路実現を間近に控えた3年生は真剣に耳を傾けていました。8名の卒業生のみなさん、大変ありがとうございました。

日光自然探究学習

今年も数理科学科1年生の日光自然探究学習に参加しました。新型コロナウイルスへの感染防止のため日帰りでの活動でしたが、生徒たちは講師の方々のご指導のもと、充実した探究学習ができました。私も植物班のフイールドワークに参加し、湯ノ湖周辺の樹木について学ぶことができました。
 
植物班フィールドワーク開始     樹木の高さを測定
 
幹の直径を測定                           太い樹木はメジャーで
 
動物班の発表                              指導者からのアドバイス

交流試合2回戦

交流試合の2回戦は、青藍泰斗高校との大一番です。1回表1点先制、2回裏1-2と逆転され、4回裏追加点を奪われ1-3とされるも、5回表に連打で再逆転し4-3とリード。しかしその裏、この日2本目のホームランを打たれ4-5と、あと一歩のところで勝利を逃しました。試合に出なかった選手やマネージャー、先生も保護者の皆様も含め、チーム一丸となって全力で試合にのぞんでいました。みんな、よく頑張りました。そして、感動をありがとうございました。


連打で再逆転へ

試合終了4-5あと一歩

高校野球交流試合1回戦

全国高校野球選手権大会栃木大会の中止を受け、県高野連が独自開催する交流試合に、大会参与として観戦する機会に恵まれました。初戦の足利清風高校は3-0で勝利し、次の2回戦は栃木県最強とも言われる青藍泰斗高校との対戦になります。


満塁のチャンス

3-0で勝利 校歌斉唱

疫病退散

教室棟4階に現れた「アマビエ様」が校長室にもやってきました。「病が流行ったら私の写し絵を人々に見せよ」と言い残し海へ消えたという言い伝えがある妖怪です。新型コロナウイルスへの感染防止対策として臨時休業が続いていますが、少しずつ学校再開に向けた動きが出てきました。生徒のみなさんも、もうしばらくの間、感染症対策を徹底するとともに、家庭学習に取り組んでください。