校長室より

小高生へ(10)

「楽しく生きる」

「幸せな時間を過ごす」

 ~結果だけが全てではない

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 世の中は「結果」で評価しがちですが、私たちの人生は結果だけが全てではありません。むしろどんな結果であったにしても、そこに至る「過程」の方が大切ではないでしょうか。人生の節々における「結果」は、もちろん大きな「意味」をもっています。しかし、その本当の「意味」は、後になってからわかるという場合もあります。「勝つ」ことは素晴らしいことですが、「負ける」ことで全てが無意味になるわけではありません。その「結果」にいたるまでの「過程」が素晴らしいものならば、その価値が減ずることはないと思います。「結果」ばかりに目を向けず、「過程」を大切にし、「楽しく幸せな時間を過ごす」ことこそが、人生において大事なことだと言えないでしょうか。
 私は教頭として3年間、特別支援学校に勤務していたことがあります(教頭になる前の教諭としては、高校への勤務経験しかありませんでした)。特別支援学校では、先生方と児童生徒の皆さんから、たくさんのことを教えていただきました。「人生の意味」について深く考えさせられることも多かったと思います。特別支援学校には「訪問教育学級」があり、これは毎日通学することが難しい児童生徒に対して、先生が家庭に訪問し授業を行う学級のことです。訪問教育学級の児童生徒は、普段は各家庭で授業を受けるわけですが、年に数回、「スクーリング」で保護者とともに学校に来る機会があります。スクーリングの際には、通学の児童生徒と交流したり、イベントやゲームを保護者と一緒に楽しんだりします。あるスクーリングで音楽会を開いた時のことを、私はとても印象深く、忘れがたく覚えています。アマチュアの演奏家の方々を招いての音楽会で、親しみやすい曲が演奏され、訪問学級の児童生徒と保護者はその時間を心から楽しんでいる様子でした。外の世界には競争があり、人々は仕事や勉強に追われているわけですが、その音楽会が行われている空間には、本当に「優しくゆったりと流れる幸福な時間」がありました。外の空間に流れている時間と、演奏会の空間に流れている時間が、全く質の違う時間であることを感じて、私は自分が「今、特別な時間を過ごしている」ことを深く心に刻みました。
 「人生の意味」とは、競争に勝つこと、地位や名誉を得ること、経済的に優位に立つことだけではありません。それらは、幸福に至るための手段や方法の一部ではあるかもしれませんが、人生の究極の目的(=幸福)そのものではないはずです。私たちが生きている社会は競争原理が強く働いているので、私たちはどうしても他者と争い、勝つことで自らの承認欲求を満たそうとしがちですが、「勝つ」こと(結果)が人生の目的となってしまったら、ほとんどの人は挫折で終わる人生ということになってしまいます。勉強や部活動における競争において結果はもちろん重要ですが、そのプロセス(過程)にこそ「意味」があります。互いに励まし合い、高め合う過程こそが大切です。「楽しく生きる」・「幸せな時間を過ごす」ことに「人生の真の意味」があるのです。寅さんも、「人間はどうして生きるのか」の問いに、「生まれてきてよかったと思える時(幸せな時)があるからだ」と答えていたではありませんか。

小高生へ(9)

青春時代の出会いと孤独について

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 「青春」のイメージとは、どういうものでしょうか。多くの文学作品、マンガ、映画、ドラマ、アニメなどによって、青春は繰り返し描かれてきました。これは、青春時代が人生の他の時期とは違う特別な一時期であり、誰にとっても忘れがたい時間だからにちがいありません。皆さんは、青春を描いた作品として何を思い浮かべますか?
 辞書では、「人生の春にたとえられる若い時代」などと述べていますが、「若くて元気」というだけでくくりきれない、多くの側面を「青春」はもっています。人生は常に複雑かつ多様であり、青春時代も複雑かつ多様だと私は考えます。
 とはいえ、「純粋」や「ひたむき」という言葉は、人生の中でも青春時代にこそ最も似つかわしいものかもしれません。「思い込み」の激しさは、往々にして青春時代にありがちであり、「若さ」の特権のようにとらえられています。私の好きな音楽家に、ジャクリーヌ・デュプレというイギリス出身のチェロ奏者がいます。1987年に42歳という若さで病のためにこの世を去りましたが、16歳のデビュー当初から大変情熱的な演奏をしていました。そのあまりに激しい没我的な演奏について、彼女の才能を見出した指揮者のジョン・バルビローリは次のように語りました。「彼女の演奏を激しすぎるという人がいるが、その考えは違う。年をとれば、誰でも落ち着いてしまう。若い頃は過ぎたるがよいのだ。」バルビローリのこの言葉は、「青春」の何たるかを語っているようにも思われます。
 「何か」に自分の存在を懸けて、力の限り走り抜ける「ひたむきな激しさ」が青春時代のひとつの典型であるとしたら、高校生が部活動に懸命に取り組む姿は、まさしく「青春」そのものと言えるでしょう。部活動の大会に応援に行くと、試合に負けて大泣きに泣き崩れる生徒を見ることがあります(本校生だけでなく他校生も)。負けて悔しくてたまらない気持ちなのだろうと思いますが、純粋な大粒の悔し涙を流せるひたむきさについ心打たれ、少し羨ましい気持ちにとらわれたりします。悔しかったり、悲しかったりする時には、思いきり泣いた方がいいと私は思います。そうした方が、自分の感情を受け入れ、認めて、心を整理して、次の段階に向かう準備ができるのではないでしょうか。泣き崩れる友を慰め、励まし、肩や背中を貸す仲間たちの様子にも感動してしまいます。そういう「純粋」な人間関係は、青春時代を過ぎて年齢を経るとともに、残念ながら得難いものになってしまいがちです。だから、高校生の皆さんには今の人間関係を大切にして、互いの存在を尊重し、互いに思いやり合ってほしいと思います。高校時代の出会いが、一生続くような「友との出会い」になることがきっとあるはずです。
 同時に、青春とは「孤独」な時期でもあります。勉強や部活動で、いつも望むような結果が出せるわけではありません。上位の成績を手にするのは一部の人に限られており、勝ちたい、レギュラーになりたいと思っても、全ての人がその目標を達成できるわけではありません(一方で、勝者には「勝者の孤独」があると想像します)。親友がほしいと願いながら、なかなかできないという場合もあります。「誰も自分をわかってくれない」という気持ちにとらわれ、自分の影を踏みながら帰る時もあると思います。でも、そんな孤独な時間が、皆さんを「思いやりのある大人」に成長させる時間でもあることを知ってほしいと私は考えます。寂しさや悔しさを感じたことがない人は、他人の寂しさや悔しさを理解できないからです。今、孤独であったとしても、その孤独を「他者への思いやり」に昇華して、誠実に生活していったならば、あなたの優しさを必要とし、あなたとともに生きたいと願う人が、必ず現れます。青春期の「孤独」は、大人へ成長するために誰もが通過するステップなのです。
 いつの日か、「自分はもう大人になってしまった」、「自分の青春時代はもう過ぎ去った」と実感する時が来ます。でも、皆さんはまだ青春時代にあります。二度と戻らない青春の日々を大切に、友人を大切に、自分を大切に、精一杯生活してください。

小高生へ(8)

「人生の宿題」

 ~自分で考える大切さ

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 夏休みの宿題になかなか手をつけられず、夏休みが終わりに近づいてから宿題を終わらせるのに大変な思いをした・・・などということは、皆さんはきっとないですね(?)。私は小学校の時は、毎年夏休みの最後の数日は必死でした。
 学校の勉強に宿題があるように、私たちの人生にも「宿題」があると感じています。宿題といっても問題集に取り組んだりするわけではなく、人によってそれぞれ様々な宿題です。私たちの人生には「ステージ」というものもあります。皆さんは今、「高校生」のステージにあって、もう少し細かく見れば、「高1」・「高2」・「高3」のステージに分けることができます。そして、それぞれのステージで、各人がそれぞれの「人生の宿題」を抱えていると思います。
 高校生のステージにある人は、高校卒業後に何を目指すかを決めて、その目標に向けて努力するという「宿題」があります。社会人のステージになったら、仕事を覚えたり、社会人としての行動や言葉遣いを身につけたりする「宿題」があるでしょうし、年齢的に見ても10代、20代、30代、40代、50代、60代・・・と、それぞれ年齢に応じた「宿題」があるように思います。また、人の人生は様々ですから、ほかの人とは違う、その人だけの「人生の宿題」というべきものもあります。ヘレン・ケラーのような人は、本当に大変な「人生の宿題」に取り組み続けたと言えます。「宿題」はない方が楽かもしれませんが、「人生の宿題」が何もないという人はいないはずです。私たちは誰もが、何らかの悩みや課題を抱えています。その悩みや課題にどう向き合うかが、「人生の宿題」なのです。
 「人生の宿題」に対する答えは、模範解答のようなものがあって、それだけが正解というわけではありません。絶対的な正解があるのではなくて、人生の様々な場面における「自分にとっての正解」を、手探りでその都度見つけていくものだと思います。『男はつらいよ』という映画シリーズを知っていますか? 映画の中で、主人公の寅(とら)さんに、甥の満男(みつお)が「何のために大学に行くのか?」と問いかける場面があります。満男は受験勉強が辛くなっている時でした。寅さんは、「生きていれば、いろいろなことにぶつかる。そういう時に、きちんと筋道を立てて、自分で考えることができるようにするためだ。」と答えます。誰かに決めてもらったり、誰かに責任をゆだねてしまったりすることなく、「自分の人生に関することを、自分で考えて、自分で判断して、自分で納得して生きる」ことの大切さを、寅さんは言っているのだと思います。大学に限らず、皆さんが今まで学んできたことの意味を、寅さんの言葉で説明できるのではないでしょうか。小学校~中学校~高校と学び続け、多くの教科・科目を勉強していく中で、皆さんは一言では表現しきれないたくさんのことを身につけてきたはずです。人間存在や人間社会への知識と洞察力、論理的・科学的な思考力と判断力、健康を保ち人生を豊かに生きるための知恵と教養、現実社会で働いて生活していくための実際的なスキル、他者と協働し互いを尊重して生きていく道徳的な思考の枠組みと感受性など。それら全てが、皆さんの「生きる力」であり、自らの「人生の宿題」に対しての「答え」を見つけていくための支えとなるものです。

 あなたの「人生の宿題」は何ですか? その「答え」を見つけるために、どうしますか?

 寅さんと満男の問答を、もうひとつ紹介します。

 満男「人間は何のために生きているんだろう?」 寅さん「生まれてきてよかったと思えるようなことが、時々あるよな。そのためだよ。」

 寅さんの言う「生まれてきてよかったと思えるようなこと」とは、「生きている幸せをしみじみと感じるようなこと」と言い換えてもいいかもしれません。寅さんの答えはシンプルですが、説得力があります。そう思いませんか?

小高生へ(7)

「努力は必ず報われる」

(広澤選手からのメッセージ)

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 「努力は必ず報われるか?」と問いかけられたら、どう答えますか? 「必ず報われるはず!」と確信をもって答えられますか? 「報われる場合も、報われない場合もある・・・」と曖昧に答えますか? 私はかつて担任していた生徒の一人から、「努力は才能を超えますよね?」と訊かれて、明確な答えを返せなかったことがあります。
 ここで、皆さんの先輩(小山高校OB)の野球選手について述べたいと思います。昭和55年度の本校卒業生、元プロ野球選手の広澤克実さんです。広澤さんは、小山高校・明治大学の野球部で活躍した後、昭和59年ドラフト1位でヤクルトスワローズに入団、以後、読売ジャイアンツ、阪神タイガースで中心打者としてプレーし、打点王2回、最多勝利打点2回などのタイトルをとった素晴らしい名選手です。この広澤さんが、平成28年に母校である小山高校に講演に来てお話しくださったことが、『小山高百年誌』に掲載されています。
 現役を引退された平成15年、当時、阪神タイガースにいた広澤さんは、福岡ダイエーホークスと対戦した日本シリーズで(広澤さんはこれで引退することを決意されていたそうです)、打者として打席に立ち、ボールを打とうとしても、どういうわけか「バットを握った手が止まってしまう」、「体が動かない」という不調に陥ってしまいます。試合が終わった後、どうにもならない情けなさで2時間も自分の部屋で泣いてしまったということも、講演の中で話されています。チームとしては3勝3敗で迎えた日本シリーズ7戦目、9回ツーアウトという場面で、広澤さんは代打として現役最後の打席に立ちます。1球目は敵の22歳新人ピッチャーの速球に圧倒されながらも、2球目になって急にボールが見えるようになり、景色がバーっと変わり、自分が本来の調子に戻ったことを確信したといいます。3球目のボール玉も「止まった」ように見えたことで、「絶対打てる!」と自信を持ち、4球目のストレートで見事ホームランを放つのです。現役としての最終打席を本塁打で飾った時の広澤さんの思いは、「自分で打ったのではなく、誰かに打たせてもらった。野球の神様、ありがとう。」という感謝の思いだったと、生徒たちに話してくださっています。そして、「努力は必ず報われる。高校時代に一生懸命努力したことが、いつ満期なるかわからない銀行預金みたいに、今すぐには満期にならなくても、次のステージにいったときに、その努力が満期になって下りてくる人もいる。いつ満期になるかは、神のみぞ知るかもしれないが、必ず努力は報われる。」と力強いメッセージを、生徒たちに贈ってくれています。
 広澤さんのこの言葉は、後輩たちへのこの上ない激励の言葉です。こういう立派な先輩をもつ小山高校の生徒たちは、本当に幸せだと思います。広澤さんをはじめとする先輩方の素晴らしい生き様・人生を、今、小山高校に通う生徒たちも受け継いで、幸せで充実した時間を過ごしてほしいと願っています。努力は必ず報われる‼ 頑張れ、小高生‼

小高生へ(6)

「事実 → 解釈 → 感情 → 行動」
「微笑み」の魔法

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 私たちは、日々の生活の中で多くの出来事に出会います。人生とは、数え切れない出来事(事実)の集積とも思えます。でも、「人生=事実の積み重ね」なのでしょうか。人間は、様々な文学や哲学を生み出してきました。それらは、言わば「人生の解釈」とも言うべきものです。私たちの人生は、事実だけではなく、事実をどうとらえるかという「解釈」も重要な構成要素になっていると考えられます。
 わかりやすい例で言うと、水筒を持っていたとして、水筒の中身が残り半分になった時、「もう半分になってしまった」ととらえるか、「まだ半分もある」ととらえるかは、その人の「解釈」です。同じ事実に対して、プラスにとらえることも、マイナスにとらえることも、どちらの「解釈」も可能ですが、プラス(前向き)にとらえることで「感情」が変わってきます。
 これは、私が出会ったある生徒の話です。その生徒は野球部員でポジションはキャッチャーでしたが、「一発逆転されるかもしれない」というピンチの時はどんな気持ちなのかを尋ねたところ、「面白いぜ! 絶対負けるもんか!」という気持ちだという答えが返ってきました。私は「なるほどなあ」と感心しました。逆転されるかもしれない状況(事実)を「面白い」とプラスにとらえ(解釈)、「負けるもんか」という勝負への意欲(感情エネルギー)を引き出す流れ、このような思考と感情の流れが、観る人をワクワクさせるプレー(行動)につながるのだということが印象的に納得されました。
 毎日の生活も、単純に楽しいことばかりではありません。うまくいかないことや自身の思いにかなわないことの方が多いかもしれません。そうしたことをあえてポジティブにとらえてみると、きっと何かが変わります。何らかの「事実」があり、私たちはそれを「解釈」します。マイナスに解釈すれば、どうにもならないと思われることも、プラスにとらえると次なる飛躍へのステップになります。前向きな「解釈」は、前向きな「感情」(意欲)を引き出します。そして、「感情」が変われば、「行動」が変わります。
 「微笑み」の魔法があるそうです(ある先生から聞いた話)。試験の時、問題を開く前に「これは私を合格させてくれる問題だ」と思いながら(解釈)、問題に向かって微笑んでから解くようにすると実力が発揮できるという話です。前向きな解釈と、微笑むことによるリラックス(感情)が、落ち着いて問題を解くこと(行動)につながるということですね。「必勝」ならぬ「必笑」をスローガンとする、甲子園常連の高校野球部の話も聞いたことがあります。選手たちは、「笑う」ことでポジティブなイメージがわいてきて、落ち着いて前向きに戦えるのだそうです。いつもニコニコ笑っている人がいると、雰囲気が楽しくなります。楽しいと、心身をリラックスさせることができます。きっとその方が「うまくいく」のだと思います。「微笑み」の魔法を、いろいろな場面で使ってみてください。魔法の成果を報告してもらえるとうれしいです。

小高生へ(5)

お互いにリスペクトし合おう!!

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 皆さんには、友人を大切にしてほしいと思っています。「大切にする」とは、どういうことでしょうか。その答えのひとつは、「リスペクトする(尊敬する、敬意を表す)」ということだと思います。
 少し前に、ショパン・コンクール優勝者であるピアニスト、スタニスラフ・ブーニンのドキュメントをテレビで観ました。ブーニンは、左手の故障や左足の骨折手術のために9年間、演奏活動をしませんでした。55歳の彼がカンバックしたのは、日本人の妻やショパン・コンクール以来の盟友ルイサダ(ピアニスト)の存在がとても大きかったようです。ルイサダは久方ぶりのブーニンとの再会に、「我がピアノの王子! わが青春!」とブーニンを抱きしめ、「君は変わらない。いつだって貴公子のようだ。」と話しかけ、「なんて美しい手なんだ。この手を撮ってよ。」とカメラマンに言うのです。そして、演奏会を前に不安にかられるブーニンに、「君の音を届けることは、聴衆にとって最高の贈り物になるだろう。」と元気づけます。演奏会での夫の演奏を固唾を飲んで舞台袖で聴いていた妻は、夫の演奏がうまくいったのを見て、「やった!」と心からの喜びの声をあげます。妻や友人の愛情深い温かい支えがなければ、ブーニンのカンバックは難しかっただろうと思います。
 どんなに才能があっても、人間は自分一人で生きているわけではないのだと強く感じます。そして、厳しい競争と変化の激しい予測不可能な状況の中で生活することが避けられないなら、私たちを支えてくれるのは、身近な人たちとの信頼関係(心のつながり)なのではないでしょうか。お互いの個性を認め、お互いの存在を尊重し、お互いに支え合い、助け合うことで、私たちは「人生の坂道」を上り続けていくことができます。
 だから、自分が高校で出会った友人の誰に対しても、リスペクトしてください。歌にもあるように、誰もが「世界に一つだけの花」というべき存在です。そして、私たちは「自分のため」だけに生きても幸せではなく、自分が「誰かのため」にプラスの存在となることを喜びと感じる「善性」を備えています。現代は情報過多のために、「出合い」の意味が軽くなり、「人」への敬意も忘れられがちです。そのような状況に流され、身近な友人や家族へのリスペクトが置き去りにされることは、幸せなこととは言えないと思います。なぜなら、リスペクトを忘れた後に残るのは「孤独」でしかないからです。孤独が一概に悪いわけではなく、「価値ある孤独」もありますが、それは他者との関わりを大切にし、自他の存在がお互いにプラスであるという前提があっての孤独だと思います。(マザー・テレサは、「この世の最大の不幸」は「誰からも自分は必要とされていないと感じること」だと述べています。)
 小高生の皆さん、お互いにリスペクトし合おう‼ お互いに励まし合い、助け合おう‼ そうすることで、私たちは強くなれる。相手を尊敬することは、自分を尊敬すること。小山高校が、温かい敬愛の雰囲気に包まれることを願っています。

小高生へ(4)

大学入試で必要ないから勉強しない?

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 大学入試は本当に大変です。難関大の入試は、部活動にたとえるなら全国大会で戦うようなものです。勉強しなければならないことが多くて、ともすれば受験科目を絞って、「入れる大学でいいや」と妥協したくなるかもしれません。でも、安易な妥協は禁物です。目標を下げて、楽な方向に逃げてしまうと、努力しようという意気込みも薄れて、実力を伸ばすことが難しくなってしまいます。結果として、「入れる大学」の合格すら遠のいてしまうなどということもあります。
 ところで、「大学入試で必要ないから勉強しない」というのは「正解」なのでしょうか。生徒の皆さんには、目の前の損得勘定だけではなく、「長い目で見た場合の正解」があることもわかってほしい気がします。「学ぶ意味」とは、大学入試だけで決まるものではないと思います。私たちの人生は、大学入試で終わるわけではないのですから。
 『走れメロス』や『人間失格』の作者である太宰治のことは、皆さんも知っていますね。太宰の書いた小説『正義と微笑』の中で、主人公の少年が通う学校の「黒田先生」は、生徒たちに「勉強」について次のように語ります。
 学校の勉強を、「卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだ」という考えは「大間違い」であり、「日常の生活に直接役に立たないような勉強」こそが、「人格を完成させる」。「覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということ」である。「学ぶ」ことは「心を広く持つ」ことにつながり、「愛するという事を知る事」である。そして、知識が失われても(忘れてしまっても)、「勉強の訓練の底」には「一つかみの砂金」が残り、それこそが「貴い」と。
 この勉強の底に残る「一つかみの砂金」とは何でしょうか。一生懸命に学んで、学んだ知識を忘れた後も残るものとは何でしょうか。例えば、芥川龍之介や夏目漱石の小説、古文の「源氏物語」等を読んでも、高校を卒業すれば内容は忘れてしまうかもしれません。しかし、優れた文学に触れることで、人間の弱さ、どうしようもなさ、愛おしさを知ることができます。そのような人間理解は、作品そのものは忘れてしまっても、読んだ人の中に何らかの形で残るものだと思います。数学で様々な問題の解き方を覚えても、職業的に必要としない場合には、その記憶は薄れていってしまうものかもしれません。でも、論理的な思考力や判断力という「考え方の枠組み」は、学んだ人の中に残るのではないでしょうか。高校で学ぶ多くの教科・科目のどれをとっても、他の教科にはない「思考の枠組み」があり、それを蓄積することが私たちの「生きる力」になっていくのだと考えられます。私たちの内面に思考の枠組みの「引き出し」が多ければ多いほど、それだけ「多様で複雑な人生の諸問題」に対応できる力があると言えます。学ぶ意味は唯一の正解があるわけではなく、それぞれが見つけていくものかもしれませんが、私たちが日々学ぶことには「直接に役に立つかどうか以上の意味」があり、それこそが学んだ後に残る「砂金」なのだろうと思います。(太宰治というとデカダン=退廃主義のイメージが強いかもしれませんが、「黒田先生」の言葉は立派な教育論です。)
 「学ぶ」=「カルチベートされる」=「心を広く持つ」=「愛することを知る」という考え方は、「教養(リベラル・アーツ)の大切さ」について端的に述べているように感じます。「カルチベートcultivate」という単語には、「(土地を)耕す、耕作する」、「(才能・品性などを)養う、磨く」、「啓発する、教養をつける」等の意味があります。皆さんは勉強を進めていく中で、「自分の脳が耕されている」ような感じ、「自分の感覚もしくは世界の見方が広がった」ような感じをもったことはありませんか。昨日までは見えなかったものが見えるようになったような感じ、さっきまでできなかったバックハンド(テニス)がある時からできるようになったような感じといったらいいでしょうか。私たちを囲む世界は混沌(カオス)かもしれませんが、多くの教科・科目を学んでいく中で「ものの見方」の引き出しを自分の内面に増やしていけば、様々なものが見えると同時に(その時々にふさわしい)秩序をもった世界として見ることができる(=理解できる)ようになるはずです。そして、その深い理解は「愛すること」につながっていきます(逆を言えば、理解できないものを愛することは難しいということになります)。
 「学ぶこと」は「(世界を)理解すること」。「学ぶこと」は「心を広く持ち、愛すること」。多くを学ぶことは、より愛せるようになること。だから、「学びの意味」は大学入試だけでは測れないのです。

小高生へ(3)

誰のために学ぶか?

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 毎日の勉強は大変ですよね。「高校の勉強なんて楽勝」という人は、少ないはずです。やらなくてはいけない量が多い時には、「もういいや」と投げ出してしまいたくなることもあると思います。偉大な先人たちが積み上げてきた「知の遺産」について学ぼうというのですから、大変なのは当たり前かもしれません。「いったい何のために、こんなことをしてるんだろう」、「誰のためにやってるんだろう」という疑問の思いが、心の奥からわいてきませんか? 高校時代の私は、いつもそういう疑問を胸のうちにくすぶらせていました。
 ここで、一人の音楽家について紹介したいと思います。この方は日本人の女性ヴァイオリニストです。私とほぼ同年代の方ですが、私が子どもの頃にテレビに出ていて、ヴァイオリンの「天才少女」として紹介されていました。少し強気な表情をした彼女がヴァイオリンを見事に弾くのをテレビの画面越しに見ながら、世の中にはこんな凄い少女がいるのかと、私は別世界の人を見ているような気持ちでいました。
 彼女は2才からヴァイオリンを始めたそうですが、10才の時に先生の勧めで大きなコンクールに挑戦することになります。そして、猛練習を積み、見る間に上達し、周囲を驚かせます。その年のコンクールは惜しくも2位でしたが、翌年には見事に優勝し、一躍「天才少女」として注目を浴びます。
 しかし、「天才少女」という賞賛の陰で、嫉妬やいじめを受け、学業との両立に悩み、次々と設定される高いハードルに苦しんだそうです。高校時代には、天才であり続けるための圧力に身体と心が悲鳴をあげていたといいます。そして、遂にはヴァイオリンをやめてしまいます。
 大学は文学部に入学し、大学で哲学等の講義を聴きながら、自分探しをしていた彼女は、ふとした縁でボランティアを手伝うことになります。そして、ホスピス訪問で、一人の末期がんの患者さんが、最後に彼女の演奏を聴きたいと願っていることを知らされ、戸惑いながらその方をお見舞いし、数年間全く触れていなかったヴァイオリンを手に取りました。なんとか演奏はしたものの、思うように指が動かず、かつてのような音色を出すことはできませんでした。
 「ありがとう。本当にありがとう。」患者さんは涙ながらに、繰り返し感謝の言葉を口にしたそうです。
 「こんな演奏に感謝の言葉をいただいて申し訳ない。ヴァイオリンをやめずに続けていればよかった。」そう思った彼女は、その日からヴァイオリンの練習を再開しました。
 ただ一人の聴き手の、心からの感謝の言葉が、壁にぶつかっていた一人の音楽家に「音楽の人生における意味」を思い出させ、音楽の道へと引き戻したのです。この方は、今も人々に音楽を届け、感動を与えるヴァイオリニストとして活動を続けています。
 私たち人間は、社会的な存在であり、自分以外の他者と関わりながら、日々生活しています。そして、互いに様々な影響を与え合いながら、厳しい競争原理の中で生きています。そこには必然的に、「自分のために生きるか」、「誰かのために生きるか」という問いが生まれてきます。「自分のために生きる」ことと、「誰かのために生きる」ことが、完全に一致するとしたら、それは最も幸せなことかもしれません。しかし、現実の競争社会では、私たちは「自分のため」を優先しなければならない場面も多いと思います。でも、「自分のため」だけでは、本当の喜びを得ることは難しいのではないでしょうか。上に紹介したヴァイオリニストの方が音楽の道に戻ったのも、自分以外の「誰かのため」にいい演奏がしたいと思ったからです。
 様々な職業に就いている方々の口から、それぞれの仕事のやりがいについて、共通する話を聞いたことがあります。それは、「自分の仕事が誰かの助けになった」、「誰かの生活をよりよい方向に変えることにつながった」ということです。私たちは、「自分のため」に生きているかもしれませんが、同時に「誰かのため」になることに取り組み、自分の存在が誰かの喜びにつながることを望む思いもあります。大切なのは、「自分のため」と「誰かのため」のバランスではないかと考えます。「自分」のことばかりを思っていると、時に失敗を恐れて力を存分に発揮できないこともあります。
 皆さんが日々学んでいるのは、「自分のため」であるかもしれませんが、「誰かのため」でもあると私は考えています。複雑で先の予想が難しい現代社会は、多くの課題を抱え、私たちは様々な事情で悩んだり苦しんだりしています。私たちは、お互いに相手の悩み・苦しみを理解しようと努めて、お互いを尊重しあい、お互いに思いやりあって生活することが大切です。そして、互いに知恵を出し合い、少しずつでもこの社会をよりよいものにしていこうとすることが大切です。そのために、皆さんは日々学んでいるのです。
 小高生は、人への思いやり・気遣いがあって、心優しいと感じています。高校での学習は、学ぶべきことが多くあって、けっして楽ではありませんが、その学びによって培った力が、社会で生かされる時が必ずあるはずです。心優しい皆さんの存在が、誰かの力となる日がきっとあります。どうか、自らの「学び」の意味について、思いを巡らせてみてください。

小高生へ(2)

ピンチはチャンス!! 負けるな、小高生

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 私たちが生活していく中で、「困ったなあ」というピンチに出会うことは避けがたいかもしれません。できることならピンチにはぶつかりたくないというのが正直な思いかもしれませんが、同時に「ピンチはチャンス」というのも正しいかもしれないと思います。
 「ピンチはピンチでしょ」と突っ込みたくなる人もいるでしょうが、歴史を振り返れば「ピンチ」を「チャンス」に変えて成功した事例は、数多く見られます。むしろ「チャンス=チャンス」の成功例よりも、「ピンチ→チャンス」の成功例の方が多いかもしれません(そういう事例はドラマチックだから取り上げられやすいという面もありますが)。成功者の多くは、才能に恵まれると同時に、幾多の困難を乗り越えてきた人たちです。才能があるだけで(困難を克服する努力なしに)成功した人は、いないのではないでしょうか。
 有名な映画俳優(同時に、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家)であるチャップリンの幼年時代は、チャンスどころかピンチだらけでした。両親は舞台人でしたが、父はアルコール依存症で、母は心の病を抱えていました。やがて両親は離婚し、子を引き取った母は病気で入院し、幼いチャップリンは救貧院で生活したりしていました。生きていくために、チャップリンは食品雑貨店のお使い、診療所の受付、豪邸のボーイ、ガラス工場や印刷所の工員など様々な仕事をします。チャップリンの映画には、貧しい労働者、心優しきホームレス、傲慢な金持ちなどが登場し、ユーモア(笑い)とペーソス(涙)が交錯する人生のドラマが描かれますが、これは幼年時代の波乱多き経験があってこそ可能だったと思われます。ピンチだらけの幼年時代が、チャップリンの名作映画を生み出す源泉となったのです。(チャップリンの映画は、絶対観る価値があります。お勧めは、『ライムライト』、『街の灯』、『モダンタイムス』、『独裁者』、『殺人狂時代』など多数。漫画家の手塚治虫は、チャップリンの映画には「全てがある」と言っています。)
 私たちは、しばしば「思い込み」にとらわれます。「もうだめだ!」とか「絶対無理!」とかいうように。しかし、自分ではそう思っても、他の人から見たり、客観的に見たりしたら、「そんなことはないよ。」ということがあるかもしれません。私たちの生活は、事実と、その事実をどう受け止めるかという意識(思い込み)によって成立しているのではないでしょうか。同じ事実に向き合っても、「ピンチだ。もうだめだ!」と思ってしまう人と、「何とかなる。これはチャンスだ!」と思う人がいるとしたら、道が拓けやすいのは後者だろうと想像できます。誰かから注意を受けた場合に、「うるさいなあ。どうせ自分はできないよ。」と考えるのと、「アドバイスをもらった。ありがたい。」と考えるのとでは、その後の結果がきっと変わってくるはずです。
 「苦労なんかしたくない」、「ピンチになんかなりたくない」と誰でも思っているかもしれませんが、ピンチのない人生なんてこの世にないんじゃないでしょうか。スポーツの醍醐味のひとつは、いかにピンチを乗り越えるかにあると思います。人生の醍醐味も同じかもしれません。ある程度の年月を経て懐かしく思い出すのは、苦労を乗り越えたことだったりします。もしかしたら、苦労を乗り越えるって、「人生最高の楽しみ」なのかもしれません。悩みや苦労が全くない人よりも、「人生いろいろ」で苦労や苦難がありながらも、自分自身を大切にして朗らかに生活し、自分以外の人にも親切に接して、互いを尊重し合える人の方が、魅力的ではないでしょうか。苦労やピンチは私たちにとって成長のチャンスであり、苦労やピンチを乗り越えることはこの上ない喜びであり、苦労やピンチこそが人間性を高め、その人の「人としての陰影」を深めてくれるのだと思います。
 ピンチは飛躍へのチャンス。ピンチに負けるな、小高生! いつも応援しています。

小高生へ

「新年度=学びのスタート」

「学びの意味とは何か」

「優しく、強く」

 令和6年度が始まりました。生徒の皆さんは、この一年をどんなものにしたいと思っているでしょうか。

 4月8日の始業式では、校長式辞の中で2011年に起きた東日本大震災の2か月後に、新聞に掲載された人生相談についてお話ししました。相談者は女性の大学生の方です。その方は、東日本大震災当日、祖母と坂道を上って避難していました。ところが、祖母は「これ以上走れない」と言って座り込み、背負って行こうとする女性の背中に乗ることを強く拒否し、「行け、行け」と怒ります。女性は祖母に謝りながら、一人で逃げました。地震から3日後、祖母は遺体で発見され、「気品があって優し」く「私の憧れ」だった祖母の遺体が、体育館に「魚市場の魚のように転がされ」ているのを、女性は見ることとなります。そして女性は、祖母を見殺しにした自分を「一生呪って生きていくしかない」のかと思い、自分を責め続けているという相談です。この相談に対して、回答者の心療内科医は、手紙を読みながら涙が止まらなくなったと述べ、相談者が祖母を見殺しにしたのではなく、祖母は自分の意志で相談者を助ける道を選んだのであり、「誇りをもって生を全うした」はずだから、相談者は祖母の意志を受け継ぎ、生き抜いてほしいと励ましています。
 新聞に掲載された、この相談を読んだ時、私は「こんなにも深い悲しみがあるのか」と、胸が詰まる思いにとらわれました。相談者の方が、今はその悲しみを乗り越え、幸せな毎日を過ごされていることを願わずにはいられません。
 今年の元日にも、能登半島を中心とする大きな地震が発生しました。犠牲者の方々のご冥福をお祈りするとともに、いまだ復興の途上にある被災地の住民の皆様の生活が一日も早く改善されることを願いたいと思います。
 私たちの日常生活の中にある、思いどおりにいかないこと、辛いこと、苦しいことは、数え上げればきりがないかもしれません。でも、負けてはいけないと思います。少しずつでも前に進んでいこうとすることが大切です。そして、この世の中にある様々な悲しみや苦しみをなくしていけるように、私たちは学び続けていかなければなりません。
 私たちは、お互いを尊重し、お互いを大切にし合い、お互いに親切にし合い、お互いに助け合って生活していかなければなりません。切なく、寂しいことがあって、そのことを乗り越えようとする時、互いに寄り添い合う「優しさ」が「生きる希望」につながります。そして、高校時代に多くの教科・科目を懸命に学ぶことをとおして養う「思考力」・「物事の見方」・「考え方の枠組み」は、絶対的な正解のない「人生の問い」に対峙し、「自分の答え」を見つけるうえで役立つ「生きる力=強さ」につながります。私たちの日々の学びは、競争に勝つよりも、互いに助け合い、高め合うための学びととらえたいと考えます。皆さんには、高校生活の中で、互いを認め、励まし合う健全な友人関係を築き、一日一日を大切にし、「他者への優しさ」と「負けない強さ」を培っていってほしいと思います。

 新しい1年が、皆さんにとって素晴らしい1年となることを心から願っています。健闘を祈ります。