日光彫
日光彫の歴史

「日光を見るまでは結構というな」といわれるほど、日光は古くから信仰と観光の地として栄えていました。

現在の日光繁栄の基礎を築いたのは勝道上人(しょうどうしょうにん)(*1)です。

延暦(えんりゃく)元年(782年)、勝道上人が男体山(なんたいさん)(*2)の山頂を極めると、日光は修験の名山として知られるようになり、多くの人びとが訪れるようになりました。

さらに江戸時代(えどじだい)の元和(げんな)3年(1617年)、徳川家康(とくがわいえやす)の遺骸(いがい)が久能山(くのうざん)〔静岡県(しずおかけん)〕から移されて東照宮(とうしょうぐう)(*3)が造営されると、将軍をはじめ諸大名や武家・公家、庶民が参詣するようになり、参詣の地としてたいへんな人気となりました。

寛永(かんえい)11年(1634年)、三代将軍(さんだいしょうぐん)家光(いえみつ)は東照宮を現在の荘厳(そうごん)な社殿(しゃでん)に造り替えることを宣言し、全国から宮大工、彫物大工、漆工、金工、絵師など名匠たちを集めました。

集められた職人は延べ168万人余り。

そのうち彫物大工は40万人。

全職人の約4分の1を占めています。

彫物大工は、幕府絵師に任命された狩野派(かのうは)の絵を寸分の狂いもなくノミ一丁で叩き出しましたが、これらの彫物大工たちが仕事の余暇に彫ったものが日光彫の起源といわれています。

東照宮完成後、日光に残った彫物大工たちは東照宮の補修や整備にあたる一方、お盆やタンスなどを彫り続け「日光見物」に訪れる人たちにおみやげとして売るようになりました。

さらに明治時代(めいじじだい)になると海外から日光を訪ねて来る人も増え、日光テーブルなどが横浜(よこはま)から盛んに輸出されるようになりました。

そして今、日光彫はカツラ・ホウなどの木地を使って盆類、菓子器、銘々皿、テーブルなどが豊富に作られています。
いずれも木のぬくもりと手作りならではの味があり、今も観光客に人気があります。

用語解説
(*1)勝道上人
奈良時代末(ならじだいまつ)から平安時代初期(へいあんじだいしょき)の高僧(こうそう)です。

下野国(しもつけのくに)〔栃木県(とちぎけん)芳賀郡(はがぐん)〕の人で、男体山を開いて神宮寺(じんぐうじ)を建立しました。

(*2)男体山

日光市にある標高2,484mの火山で日光火山群の主峰(しゅほう)です。

別名日光山(にっこうさん)・二荒山(ふたらさん)といいます。

(*3)東照宮
元和3年(1617年)、徳川家康を奉祀(ほうし)し創建された神社です。

創建当初の社殿は、20年後の寛永13年(1636年)、三代将軍家光によって建て替えられ、今日の絢爛豪華(けんらんごうか)な社殿群となりました。

これを、「寛永の大造替」といいます。

現在の国指定文化財(国宝、重文)の建造物は、そのとき建立された木殿や陽明門(ようめいもん)など35棟を中心に、大名の奉納による五重塔(ごじゅうのとう)や石鳥居など55棟になります。

これらの建造物は、いずれも江戸初期寛永文化の優れた絵師、名工たちによって生み出された我が国を代表する宗教建築です。

平成(へいせい)11年(1999年)には、ユネスコの世界遺産条約に基づき「世界遺産」に登録されました。