周辺の歴史 その12

12 江戸時代の多功村
 
○上三川高校がある多功は、江戸時代には多功村と呼ばれていました。一般に江戸時代の村は、現在の大字程度の大きさでした。支配者は、初め宇都宮藩でしたが、17世紀後半には旗本3氏の相給(あいきゅう、1つの村に複数の領主がいること。ただし領主が実際に村に住んで支配したわけではなく、支給される年貢米がとれる村、という関係のみ)、幕末段階では幕府、下総関宿藩、旗本3氏の相給と、めまぐるしい変遷がありました。もっとも、こうしたことは多功村に限ったことではありません。天保年間(1840年ごろ)の家数は、66軒でした。


○ところで多功村は純粋な農村ではなく、多功宿と呼ばれる宿場がありました。日光道中のバイパスの役目をはたした日光道中東通り(日光東往還、多功道ともいう)が通っていたからです。現在の県道146号線がその道に相当し、これと日光西街道との交差点付近が多功宿の中心地区だったと推測されます。近くにあるバス停「宿多功」や、本陣(大名や幕府役人などが宿泊)兼問屋をつとめた谷中家の門構えなどが、わずかに往事をしのばせてくれます。