このページの記事は、地歴公民科教諭で本校第12代校長の松本一夫先生が作成されたものです。

上三川高校周辺の歴史

周辺の歴史 その1

1 遺跡の上にたつ上三川高等学校

 

○上三川高等学校は、遺跡の上にたっています。「多功南原遺跡(たこうみなみはらいせき)」といい、学校やその北側の多功南原公園なども含む周辺一帯をさします。

 

○このうち本校の敷地内は、校舎が建てられる前年の昭和58年(1983)5月から9月にかけて発掘調査が行われました。その結果、住居跡9軒の他、井戸跡、火葬墓、土坑29、土師器(はじき)や須恵器(すえき)などの土器、瓦や砥石、鉄製の鏃(ぞく、矢の先についた刃)などが見つかりました。

 

○たとえば住居跡の1つをみてみると、大きさは東西4.5m、南北4.2mで、広さはだいたい15畳程度です。四方それぞれ20cm余り掘られていて、これが壁の役割を果たしました。内部に2ヵ所、柱をたてた穴が残り、北側には煮炊きをしたと思われる、かまど跡があります。

 

○これらのうち、土坑については縄文時代のものとされていますが、それ以外は、住居跡から見つかった土器の年代から判断して奈良時代、8世紀なかごろから9世紀後半ごろのものとみられています。

周辺の歴史 その2

2 多功にあった古代の建物の正体は?

○前回は上三川高校が原始・古代の遺跡の上に建てられたことをお話ししました。この多功南原遺跡には、本校の周りにも重要な遺構、遺物が多く残っています。


○なかでも、一般住居跡よりはるかに大規模な掘立柱(ほったてばしら)の建物址が、全部で59棟も見つかっていることは、きわめて注目されます。時期は8世紀末~9世紀初め、奈良時代末~平安時代初めごろのものとみられています。このうち最大のものは、9m×5.4mほどもあり、庇(ひさし)と瓦屋根をもつ立派な建物であったと推測されています。この時代、よほど重要な建物でないと瓦屋根は用いられません。


○いったい、こうした建物は何だったのでしょうか。専門家の中には、古代の役所、それも今の県にあたる国や、その下の郡の役所にしてはやや小さいので、郡の下の郷の役所跡ではないか、という人もいます。その一方で、この付近に古代日本の幹線道路の一つ、東山道(とうさんどう)が通っていたことがわかっているので、駅家(えきか・うまや)跡ではないか、とする説もあるのです。


○いずれにしても、本校付近が古代の下野において、政治的にかなり重要な地域であったことは、まちがいないようです。                      

周辺の歴史 その3

3 地名の由来ー上三川と多功ー

○本校の校名である「上三川」は、もちろん学校のある上三川町からとったものですが、ではそもそも「上三川」という町名の由来は何でしょうか。

                   
○平安中期につくられた『倭(和)名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)という辞書によると、古代下野国河内郡の中に「三川郷」がありました。多功南原遺跡から出土した土器にも、「三川」と墨で書かれたものが見られます。この三川郷が、後に上・中・下に分かれ、下三川については不明ですが、中三川は江戸初期に上三川にあわさる形で廃止されました。その位置は、現在の上三川町大字上三川付近と思われます。


○では、この「三川」の由来は何でしょうか。単純に考えれば、この付近を流れる三本の川(鬼怒川、江川、田川。ただし異説あり)からきているともみなされますが、「三」はもともとほめたたえる意味の「ミ」とみなすべき、つまり多くの川が流れる場所、というほどの意味である、という説もあるのです。


○一方、学校のある大字「多功」は、一般には東山道に設けられたこの付近の駅家、「田部」が、本来は「田郡」(たこおり)で、これが多功になった、とされています。しかし、「タベ」の「タ」には意味はなく(調子を整えるため)、「ヘ」は「ウヘ(上)」、つまり台地をさし(このあたりは大字上三川付近が低地なのに対し、台地である)、これが郡衙(ぐんが、郡の役所)がおかれた関係で「田郡」に転じ、さらに多功となった、とする説もあるのです。


○地名の由来は、確実な証拠がないため、特定することは難しいのですが、その地域のいろいろな特徴から推測してみることには、それなりの意味があると思います。

周辺の歴史 その4

4 古代の役所跡-上神主・ 茂原官衙遺跡その1-
 
○上三川町上神主(かみこうぬし)と宇都宮市茂原(もばら)にまたがる河内郡衙(ぐんが、郡の役所)跡とみられるのが、上神主・茂原官衙(かんが)遺跡です。


○平成7~14年(1995~2002)にかけて上三川町教委と宇都宮市教委が行った調査の結果、瓦ぶき屋根1棟、掘立(ほったて)柱建物跡53棟、掘立柱塀(へい)跡2基、溝跡8条、道路跡などが確認されました。


○役所の規模は、東西約250m、南北約400mと推定され、西側に大きな門があった他、南東部にも出入口があったようです。


○遺構内部は北側の建物群、中央部の政庁域、南側の正倉域の3つにわかれ、南東部に接する形で東山道(とうさんどう)とみられる古代の幹線道路が通っていました。


○役所は8世紀前半を最盛期として、7世紀後半から9世紀前半まで存在していたとみられ、 この間、建物の変化から4つの段階にわけられます。


○これだけ郡役所の全体像がわかる遺跡は全国的にも少なく、また次回紹介するような人名を刻んだ瓦が多数出土していることもあり、平成15年(2003)国の史跡に指定されました。

周辺の歴史 その5

5 古代の人名-上神主・ 茂原官衙遺跡その2-
 
○この遺跡最大の特徴は、正倉域にある31.4m×9.0mの規模をもつ建物の屋根に葺(ふ)かれていたとみられる多数の瓦が出土し、このうち人名が刻まれているものだけでも約2300点もある点です。


○人名は18姓、94名が確認でき、これほど多くの人名瓦が見つかった遺跡は、他にないそうです。


○具体的に人名をみてみると、「酒部毛人」「神主部牛万呂」「大麻(続)古万呂」など、河内郡内の郷名と一致するものや、「雀部称万呂」「川和子万(呂)」のように、中世以降にみられる周辺の地名(雀宮、川名子)との関連が推測されるものなどがあります。


○ところで、なぜ瓦にこうした人名が刻まれたのでしょうか。皆さんも近くの寺院や神社などで、鳥居や灯籠などに人名が刻まれている場合があることに気づくことと思います。あれは、それらの造営にお金を出して協力した人々の名前です。同じように考えると、瓦の人名は、この瓦の製作費を負担した周辺の有力者、あるいは造営の労役に関わった人々を記録したものと推測されるのです。


○なお、名前の最後につくことの多い万(麻)呂は、大切な人やものの最後につく接尾語で、中世において人の幼名や刀、鎧(よろい)などにつく「丸」も、その名残ではないか、とする考え方もあるのです。

周辺の歴史 その6

6 中世武士多功氏、上三川氏の成立
 
○多功氏、上三川氏は、いずれも中世下野を代表する武家である宇都宮氏の一族で、鎌倉中期に多功城、上三川城をそれぞれ拠点として成立した、とされています。このことを確認できる信憑性の高い史料はありませんが、上三川城跡から出土した遺物は、鎌倉時代のものであることが確認されています。 

                   
○宇都宮氏は宇都宮を拠点として、次第に周辺の地域へ一族を配置していきました。このうち氏家氏(さくら市)や塩谷氏(塩谷町)の分立が最も早く、ついで多功氏や横田氏(同氏から上三川氏が分かれる)、そして鎌倉末期になり武茂(むも)氏(那珂川町)とその分家西方氏(栃木市)などが成立します。


○多功氏は、鎌倉前期の宇都宮家当主頼綱の子、宗朝に始まるとされています。室町前期に作成された系図には、「小山と号す」とあり、これはおそらく児山に通じるとみられるので、はじめは児山(下野市)を名字の地としたのかもしれません。また江戸時代の系図では宗朝の名字として「西上條」をあげていますが、これは宗朝の兄弟で上條を名乗った時綱が、宝治合戦(1247年)の際に三浦方に加担して討たれたため、宗朝がその所領の一部を継承したものと思われます。


○なお横田氏の祖である頼業も「東上條」を称しているので、事情は同じだったのでしょう。

○ところで多功氏、横田氏ともに鎌倉時代の史料には「宇都宮」の名字で記されていて、既に氏家や塩谷を名乗っていた分家との違いがみられます。これは多功氏、横田氏が、氏家氏や塩谷氏に比べて、まだ独立した御家人としての地位を得ていなかったことを示しているのかもしれません。

周辺の歴史 その7

7 南北朝時代の動乱と上三川城
 
○前回紹介したように、上三川城や多功城は、鎌倉時代なかごろに築かれたとされていますが、その後しばらくは関係史料がほとんど見当たりません。


○唯一、南北朝時代の上三川城の動向を伝える古文書が残っています。延元4年(北朝年号は暦応2年、西暦1339年)2月、南朝方の春日顕国(あきくに)という武将が、常陸小田城(茨城県つくば市)から下野南東部へ向けて進撃してきました。北朝・足利方であった宇都宮氏の勢力を討つためです。

                                                    
○顕国は2月27日に八木岡城(真岡市)をおとした後、同月中に益子城も攻略し、さらに上三川城と箕輪城(下野市)へ進みました。この2つの城には当時、足利一門の桃井(もものい)氏の兄弟がそれぞれ入っていましたが、「自落」すなわち自ら城を捨てて逃げてしまったようです。


○本来の城主であったはずの宇都宮一族横田氏の名前は、古文書にはのっていませんが、おそらくは主家である宇都宮氏に従い、足利方として戦っていたものと思われます。


○関東における南朝勢力は、この時期最も強勢を誇っていました。このため上三川城も、少なくともいったんは南朝方によって占拠されてしまったようです。

周辺の歴史 その8

8 戦国時代の東西交流-多功氏家臣石崎氏-
 
  ○戦国時代、本校周辺を治めていた多功氏には、石崎氏という家臣がいました。系図によると、もともとは伊予国(今の愛媛県)の武士で、南北朝時代なかごろに宇都宮家の当主氏綱から所領を与えられたことを機に下野へ移り、室町時代には宇都宮一族の多功氏に仕えました。


  ○伊予の武士が宇都宮氏から所領をもらうのは不思議に思うかもしれませんが、実は宇都宮氏やその一族は、鎌倉時代に同国の守護や地頭に任ぜられたりしていたのです。


  ○そして室町時代の伊予関係の信頼できる史料には、喜多(きた)郡(今の大洲(おおず)市付近)に祖母井(うばがい)氏や水沼氏など、下野国内を本拠とする宇都宮氏の家臣たちの名が複数見られます。つまり宇都宮氏は、伊予へ赴く際に彼らを引き連れていったものと推測されるのです。


  ○だとすれば、反対に伊予の武士が宇都宮氏の家臣となって下野へ移ってきても、おかしくはないでしょう。もし本当に石崎氏の出身が本当に伊予であったとすれば、現在までに知りうる唯一の事例ということになります。中世の人々は、われわれが思っている以上に頻繁に移動し、遠隔地に移り住んだりすることも珍しくなかったようです。


  ○石崎氏は、古文書によれば天正10年代の前半、主家の多功氏や、その主家である宇都宮氏に従い、北進を続けていた小田原北条氏との戦いに参加して、土地や役職を与えられたりしています。

  ○なお上で紹介した系図や古文書は、今も町内に住むご子孫が大切に受け継ぎ、保管してきたものなのです。   

周辺の歴史 その9

9 多功原合戦をめぐって-その1-
 
○元亀4年(1573)と推測される3月5日、越後の戦国大名上杉謙信は、会津蘆名(あしな)氏の家臣宛てに書状を出しますが、その中に次のようなことが書かれていました。

 

 「北条氏政が兵を北関東に遣わして無益な戦いをしかけてきたが、佐竹氏や宇都宮氏らの連合軍がこれを迎え撃ち、合戦となった。昨年12月29日夜、下野国の多功原で北条軍が敗れ、それを佐竹・宇都宮氏らが追撃したため、北条方の数千人が討ちとられた。そのため 氏政は一騎のみとなって岩付へ逃げていったとのことである」(上杉家文書)
 

○すなわち、戦国時代後期に、本校付近で関東最大の戦国大名である小田原北条氏が、下野宇都宮氏や常陸佐竹氏などの連合軍と合戦を行ったことがわかります。これを多功原合戦と呼ぶことにします。

○そもそもこの合戦は、なぜ起こったのでしょうか。実はこのころ、関東中・北部をめぐって上杉氏と北条氏が激しい勢力争いを繰り広げていたのです。宇都宮氏ら北関東の武将たちは、主に上杉氏と結んで自らの勢力を維持しようとしましたが、本国から遠く、単発的な攻撃しかできない上杉氏は、次第に劣勢になっていきました。


○一方、下野国内の諸勢力も実は一枚岩ではなく、那須氏や壬生氏など、宇都宮氏と勢力を争っていた武将たちは、北条氏と結んでいたのです。


○現在の栃木市北西部を本拠とする皆川氏も、はじめは宇都宮氏と同盟を結んで上杉方の立場でしたが、元亀2年(1571)に武田氏と北条氏が同盟を結んだのを機に北条方へ転じ、宇都宮氏とも対立するようになりました(次回へ続く)。

周辺の歴史 その10

10 多功原合戦をめぐって-その2-
 
○北条方に転じた皆川俊宗は元亀3年(1572)正月、かつての格上の同盟者だった宇都宮氏の本拠、宇都宮城を占拠してしまいました。この事態はまもなく解決した模様ですが、俊宗の反抗はなおも続きました。


○これを重大視した、ときの宇都宮家の当主広綱は、姻戚関係にあった常陸の佐竹義重(よししげ)に皆川討伐の支援を求めました。義重はこれをうけ、同年10月末に出陣し、広綱とともに皆川氏の諸城への攻撃を開始しました。

○一方、深谷城(埼玉県深谷市)や栗橋城(茨城県五霞〔ごか〕町)攻めのため小田原から出撃していた北条氏政は、佐竹・宇都宮両氏による皆川攻めの知らせを聞き、これを助けるために下野へ入りました。そこで両勢力が激突したのが多功原合戦だったのです。

○謙信が書状の中で述べる「氏政は一騎のみとなって逃げた」は、いくらなんでもオーバーですが、この戦いに北条軍が敗れたことはまちがいなく、佐竹氏や宇都宮氏らによる皆川氏攻めは、翌元亀4年2月まで続いたのです。                      

○ただし、北条軍の北進という動きを根本的に止めることはできず、天正2年(1574)末以降、いよいよ下野を含む北関東への侵攻は、激しさをましていきました。

○なお年代ははっきりしませんが、この前後の時期にも上三川や多功へは佐竹義重が着陣したり、北条軍が攻めかかったりしています。こうしたことから、この付近は戦略上の要地であって、元亀3年12月に多功原合戦が起きたのも、決して偶然ではなかったのかもしれません。

周辺の歴史 その11

11 宇都宮氏の改易と上三川・多功氏
 
○天正10年代に入り、小田原北条氏による下野侵攻は、いよいよ激しさをましていきました。しかし、同じころ畿内で急速に台頭、全国の有力大名を次々と従えていった羽柴(豊臣)秀吉が北条氏と対立しました。そして天正18年(1590)、秀吉は北条氏を討つために出陣し、この時関東・東北の多くの大名たちは秀吉に従いました。下野の宇都宮氏もそのうちの一人です。


○当主宇都宮国綱は、同盟者である常陸の佐竹義宣(よしのぶ)とともに、小田原付近まで来た秀吉と面会していますが、この時、宇都宮一族で家臣の上三川氏、多功氏も従い、秀吉に対しそれぞれ馬一頭を献上しています。


○ところで上三川城は、一般には室町時代前期から宇都宮一族横田氏の分家である今泉氏が城主となったとされています。しかし、信頼できる古文書によれば、天正18年当時の上三川城主は「上三川左衛門督」であり、今泉氏はこのころ宇都宮国綱の側近として活動しているのです。


○天下統一を成し遂げた秀吉に従う大名として再出発した宇都宮国綱は、これを機に領内諸城主の人事を刷新しました。上三川氏はこの時、今泉氏と城主を交替させられた可能性があります。


○慶長2年(1597)10月、宇都宮氏は秀吉から突如改易されます。これにともない上三川氏、多功氏は、他の一族・家臣とともに没落しました。この後、上三川氏については不明ですが、今泉氏の一部は横田郷兵庫塚(宇都宮市)に逃げ、そこで農民になったとの伝承があり、また多功氏は伊予国(愛媛県)今治城主松平氏に仕えたようです。

周辺の歴史 その12

12 江戸時代の多功村
 
○上三川高校がある多功は、江戸時代には多功村と呼ばれていました。一般に江戸時代の村は、現在の大字程度の大きさでした。支配者は、初め宇都宮藩でしたが、17世紀後半には旗本3氏の相給(あいきゅう、1つの村に複数の領主がいること。ただし領主が実際に村に住んで支配したわけではなく、支給される年貢米がとれる村、という関係のみ)、幕末段階では幕府、下総関宿藩、旗本3氏の相給と、めまぐるしい変遷がありました。もっとも、こうしたことは多功村に限ったことではありません。天保年間(1840年ごろ)の家数は、66軒でした。


○ところで多功村は純粋な農村ではなく、多功宿と呼ばれる宿場がありました。日光道中のバイパスの役目をはたした日光道中東通り(日光東往還、多功道ともいう)が通っていたからです。現在の県道146号線がその道に相当し、これと日光西街道との交差点付近が多功宿の中心地区だったと推測されます。近くにあるバス停「宿多功」や、本陣(大名や幕府役人などが宿泊)兼問屋をつとめた谷中家の門構えなどが、わずかに往事をしのばせてくれます。

周辺の歴史 その13

13 田村仁左衛門吉茂と『農業自得』-その1-
 
○江戸時代中期、8代将軍吉宗のころから、下野の農業は極度の不振におちいりました。しかもこれに年貢の増徴、商品経済の発達による諸物価の値上がりと、それにともなう米価の値下がりなど、農業経営に不利な条件がいくつも重なります。


○さらに宝暦年間(1751~64)以降、冷害や風水害による凶作が連続したため、農業の不振に拍車がかかり、その結果出稼ぎや欠落(かけおち、家を出てしまうこと)、病死などで農家がつぶれ、農村の衰えが激しくなっていったのです。


○しかしその一方で、こうした状況に危機感をもち、農業技術を改良して農村の復興を図ろうとする人々もあらわれました。その一人が、下蒲生村(今の上三川町下蒲生)の名主田村仁左衛門吉茂(たむらにざえもんよししげ)でした。


○田村家はもともと村内で最も豊かな農家でしたが、18世紀なかばには経営に行き詰まり、一時は破産状態にまでおちいりました。

 

○寛政2年(1790)に生まれた吉茂は、幼いころは勉学に必ずしも熱心ではありませんでしたが、父吉茂とともにこうした危機的状況から脱するために、農業に励んでいきました。そして、この経験の中から、やがて独自の農法を見いだしていったのです(次回へ続く)。

周辺の歴史 その14

14 田村仁左衛門吉茂と『農業自得』-その2-
 
○田村仁左衛門吉茂は、当時常識とされていた、苗代にまく種籾(たねもみ)の量や、田植えの際の一株の苗数に疑問をもっていました。そこで、父吉昌と親子2代にわたる継続的な実験を行いました。その際、吉茂は数年分の作付け状況を一目で同時に比較・対 照できる独自のノートを作成しています。分析の結果、いずれも従来言われていた量よりはるかに少ない方が、収穫量が増大したことが判明したのです。


○また吉茂は、畑作についても技術改良を施し、いろいろな種類の作物をどのような順番でつくれば効果的か、病害虫を引き起こさないためにはどうすればよいか、などについての工夫を重ねました。こうした努力により、天保の飢饉(天保4~7、1833~36年)の際にも下蒲生村では、最小限の被害に食い止めることができたそうです。


○さて吉茂は、こうした成果をまとめるべく執筆にとりかかり、天保12年(1841)にはできあがりました。これが、ちょうどその時、江戸から故郷の秋田へ帰る途中、下野に滞在した平田篤胤(ひらたあつたね、江戸後期の代表的な国学者の一人)の目にとまりました。篤胤は「この本の内容は、すべて百姓の守りとなるべき教えである」とほめたたえ、自ら書名を『農業自得』と名付け、吉茂に出版を勧めたのです。


○これ以後も吉茂は、明治10年(1877)に亡くなるまで多くの農書、教訓書を執筆しました。それらは、近代日本の科学的な農業技術改良の先駆ともいえる、注目すべき内容だったのです。

周辺の歴史 その15

その15  「土方歳三(ひじかたとしぞう)と上三川」
 
○皆さんは、新撰組の副長だった土方歳三が上三川の地に来ていたことを知っていましたか。
 
○幕末維新期、下野国内各地では新政府軍と旧幕府軍との戦いが繰り広げられました。慶応 4・明治元年(1868)4月、新政府軍は江戸城をおさえましたが、なお戦いを続けようとした旧幕府軍の一部は、徳川家の聖地である日光をめざし、二手に分かれて北進を始めます。
 
○このうち前軍を率いたのが、土方でした。土方らは現在の千葉県市川市を出発し、 利根川、さらには鬼怒川の東岸沿いに進みました。そして下妻藩や下館藩に出陣を求めましたが、十分な協力が得られず、そのまま4月18日には下野に入りました。
 
○土方らは翌日、下野における新政府軍側の一大拠点となっていた宇都宮城を攻略することを決め、この日は満福寺(上三川町東蓼(たで)沼(ぬま)、本郷小学校のすぐ東)に宿営したのです。

○そして翌19日朝、たまたま捕らえた黒羽藩(新政府方)の偵察兵3名を軍神への手向(たむ)けとして寺の門前で処刑した後、宇都宮へ向け出陣しました。
 
○戦いは、最新式の軍隊だった土方軍の圧倒的勝利に終わり、宇都宮城は旧幕府方の手におちましたが、焼け方があまりにもひどかったため、土方らはいったん満福寺に戻りました。
 
○敗戦の知らせを聞いた新政府方は、江戸から多くの援軍を送り、結局4月23日に土方らは敗れて宇都宮城を放棄し(この時の戦いで土方は足を負傷)、日光方面へ逃げていったのです。  
   

周辺の歴史 その16

16 上三川町ができるまで
 
○明治維新後、日本の地方制度は何度かの変更を経て、明治21年(1888)に市制・町村制が制定されました(翌年施行)。これは明治憲法制定に備え、地方自治制度の確立が急がれたためにとられた施策でした。

 

○この改革によって、それまでの小規模だった町や村はまとめられましたが、栃木県の場合、109町、1148村だったのが26町、145村となったのです。現在の上三川町域でみると、23の村が、上三川村、本郷村、多功村(後に明治村)の3村に統合されました。

 

○この3村の村名はどのように決められたのでしょうか。まず上三川村については、まとめられたもとの7村のうち、最も大きな村の名前がやはり上三川村だったため、それがそのまま使われました。

 

○ところが本郷村は、まとめられた8つの村のいずれの名前でもありません。町村制では、特に大きな村がない場合、住民感情を考慮して関係者が納得するような村名とすること、と定められていました。はじめ8村の中の上郷村とする案が出ましたが、反対が多くてまとまらず、結局8村すべてにあった、「本田」という地名の「本」と、「上郷」の「郷」を組み合わせて「本郷」としたのでした。

 

○さらに多功(明治)村は、はじめ多功宿の主張でいったん多功村に決まったのですが、他の7村が反対し、折り合いがつかなかったため、当時の元号をとって明治村としたのです。

 

○つまり本郷と明治という村名は、江戸時代にはなかった地名というわけです。なお、これら3村のうち上三川村は明治26年(1893)に上三川町となり、戦後の昭和30年(1955)、町村合併促進法により上三川町、本郷村、明治村が合併し、現在の上三川町が誕生しました(3つの地名は町内の中学校の名前として残っています)。                                    

周辺の歴史 その17

17 日産栃木工場と上三川町-その1-
 
○昭和30年(1955)、合併によって新上三川町が発足した時点では、その人口は約19000人(ちなみに現在は約31000人)でした。このころ日本は高度成長期に入り、人口の都市への集中が進んでいました。上三川町でも勤労青少年の転出者がふえ、それにともなって毎年人口は減少し、昭和43年(1968)には約17000人あまりにまで落ち込んだのです。いわゆる過疎化の傾向が強まっていました。

 

○ところが同じ年に、上三川町にとって画期的なできごとがありました。日産栃木工場が町内で操業を開始したのです。

 

○日産自動車は、昭和8年(1933)に設立された日本を代表する自動車会社の1つで、その技術力の高さから「技術の日産」として親しまれてきました。生産台数は昭和40年3月には月間35000台、翌年3月には44000台、さらに43年12月には10万台とする計画がたてられました。

                                    
○一方このころの栃木県は、広大な平野と水利に恵まれてはいましたが、やはり人口流出が激しく、工業化による農業県からの脱却を図るため、積極的に企業誘致を進めていました。

 

○日産は、昭和40年(1965)ごろには、座間、追浜、横浜(以上神奈川県)、吉原(静岡県)の4工場体制の確立と拡充を急いでいましたが、上記のようなさらなる生産能力の増強を図るため、新工場の建設が必要となっていました。既に昭和39年には上三川町内に現在の栃木工場用地を取得し、43年3月に起工式が行われました。これは本県初の大企業進出でした。

周辺の歴史 その18

17 日産栃木工場と上三川町-その2-
 
○上三川町にできた日産栃木工場では、昭和43年(1968)にアルミと鉄の鋳造、翌年には車軸の機械加工・組立を開始しました。そして同46年、組立工場の完成にともない、車両の最終組立までを行う一貫生産体制を確立し、さらに同48年(1973)にはテストコースも完成しました。

○敷地面積は、日産の国内工場では最大の約2922ha(東京ドーム約63個分)を誇り、従業員数は昨年6月時点で約5500名、年間生産台数は約25万台、シーマやフェアレディZなどの高級車、スポーツカーを生産しています。

○さて、これほどの大工場ができたことにより、上三川町の人口は増加し始め、工場ができた昭和43年には17000人ほどだったのが、5年後には35%増の23000人余りとなりました。

○そして日産が納める税金などにより、上三川町の財政状況も大きく好転しました。具体的にいうと、昭和43年度の当初予算は2億2600万円ほどでしたが、わずか2年後には3倍近い6億2584万円に跳ね上がり、同47年度には上三川町はついに地方交付税不交付団体となったのです。

○上三川町では、これにより、それまで他の県内市町村に比べてやや見劣りしていた公共投資を積極的に進め、町内小・中学校施設の新設・増設などにもこれがあてられたのです。

周辺の歴史 その19

19 上三川高校の創立-その1-
 
○昭和50年代に入ると、日本は第二次ベビーブームの影響で中学校卒業生の数が急増し、既に昭和49年(1974)には県議会でも高校増設問題がとりあげられていました。そして同51年度から61年度にかけて、12校の県立高校が開設されましたが、本校もそのうちの一校だったのです。

○一方、こうした県全体の動きとは別に、上三川町でも日産栃木工場が操業を開始し、人口が急増し始めた昭和43年(1968)ごろから新設高校を設置してほしい、との要望を県に行っていましたが、実現には至らない状況が続いていました。

○そうした中で、前述したような県の動きが見られたため、昭和56年(1981)8月、上三川町長を会長とする「県立上三川高等学校誘致促進期成同盟会」という組織が設立されたのです。同会は、町の教育環境の充実、地域文化の向上、保護者の経済的負担の軽減を訴え、県庁及び県議会、教育委員会などに積極的な働きかけを行いました。

○学校をたてる場所については、当時特に下都賀地区に高校が不足しているという事情もあって、はじめ小山市卒島地区が候補地となりましたが、問題が起こり中止となりました。その後、昭和57年5月、上三川町多功地区に高校を新設することが正式決定されたのです。

○県内にある高校は、その具体的な事情は実にさまざまですが、どの学校も地域の熱い要望をうけて開設された点では同じであり、本校もまた例外ではありません。

周辺の歴史 その20

20 上三川高校の創立-その2-
 
○上三川高校は、昭和57年(1982)10月~翌年3月に用地造成工事、4月から校舎などの建築工事に着手し、昭和59年(1984)3月に完了、4月の開校を迎えることとなりました。なおこの間、古代の集落遺跡確認のための発掘調査が行われたことは、1で紹介しました。

○そしてこれと並行して昭和58年4月には開設準備室が石橋高校内に設置され、3名の教職員が業務にあたり、翌年1月から3月までは開校準備室と名称を変更し、5名の教職員でさまざまな準備を進めました。

○特に校訓については、当時他校にはほとんど見られなかった「愛する 勉める 創る 鍛える」という、動詞によるものとしました。これは、校訓に単なる理想や抽象概念による精神的支えを求めるのではなく、実践できる行動目標としての地位を与えたかったからでした。

○また校歌については、新設校の場合、第1回入学式には間に合わないことがふつうでしたが、初代校長成島行雄先生、教頭阿部昭彦先生は、何とか入学式で校歌斉唱、制服着用を実現させようと努力しました。その結果、校長自身が作詞、その知人で音楽家の坂本勉先生の作曲による校歌ができあがり、入学式の行われた格技場(まだ体育館はできていなかった)いっぱいに歌声が響き渡ったのでした(制服のほうも間に合った)。

○昭和59年(1984)4月6日、第1回入学式において成島校長は、歴史豊かな上三川の地に再び豊かな文化を21世紀へ向けて花開かせたい、との式辞を述べられました。【完】