周辺の歴史 その10

10 多功原合戦をめぐって-その2-
 
○北条方に転じた皆川俊宗は元亀3年(1572)正月、かつての格上の同盟者だった宇都宮氏の本拠、宇都宮城を占拠してしまいました。この事態はまもなく解決した模様ですが、俊宗の反抗はなおも続きました。


○これを重大視した、ときの宇都宮家の当主広綱は、姻戚関係にあった常陸の佐竹義重(よししげ)に皆川討伐の支援を求めました。義重はこれをうけ、同年10月末に出陣し、広綱とともに皆川氏の諸城への攻撃を開始しました。

○一方、深谷城(埼玉県深谷市)や栗橋城(茨城県五霞〔ごか〕町)攻めのため小田原から出撃していた北条氏政は、佐竹・宇都宮両氏による皆川攻めの知らせを聞き、これを助けるために下野へ入りました。そこで両勢力が激突したのが多功原合戦だったのです。

○謙信が書状の中で述べる「氏政は一騎のみとなって逃げた」は、いくらなんでもオーバーですが、この戦いに北条軍が敗れたことはまちがいなく、佐竹氏や宇都宮氏らによる皆川氏攻めは、翌元亀4年2月まで続いたのです。                      

○ただし、北条軍の北進という動きを根本的に止めることはできず、天正2年(1574)末以降、いよいよ下野を含む北関東への侵攻は、激しさをましていきました。

○なお年代ははっきりしませんが、この前後の時期にも上三川や多功へは佐竹義重が着陣したり、北条軍が攻めかかったりしています。こうしたことから、この付近は戦略上の要地であって、元亀3年12月に多功原合戦が起きたのも、決して偶然ではなかったのかもしれません。