文字
背景
行間
周辺の歴史 その14
14 田村仁左衛門吉茂と『農業自得』-その2-
○田村仁左衛門吉茂は、当時常識とされていた、苗代にまく種籾(たねもみ)の量や、田植えの際の一株の苗数に疑問をもっていました。そこで、父吉昌と親子2代にわたる継続的な実験を行いました。その際、吉茂は数年分の作付け状況を一目で同時に比較・対 照できる独自のノートを作成しています。分析の結果、いずれも従来言われていた量よりはるかに少ない方が、収穫量が増大したことが判明したのです。
○また吉茂は、畑作についても技術改良を施し、いろいろな種類の作物をどのような順番でつくれば効果的か、病害虫を引き起こさないためにはどうすればよいか、などについての工夫を重ねました。こうした努力により、天保の飢饉(天保4~7、1833~36年)の際にも下蒲生村では、最小限の被害に食い止めることができたそうです。
○さて吉茂は、こうした成果をまとめるべく執筆にとりかかり、天保12年(1841)にはできあがりました。これが、ちょうどその時、江戸から故郷の秋田へ帰る途中、下野に滞在した平田篤胤(ひらたあつたね、江戸後期の代表的な国学者の一人)の目にとまりました。篤胤は「この本の内容は、すべて百姓の守りとなるべき教えである」とほめたたえ、自ら書名を『農業自得』と名付け、吉茂に出版を勧めたのです。
○これ以後も吉茂は、明治10年(1877)に亡くなるまで多くの農書、教訓書を執筆しました。それらは、近代日本の科学的な農業技術改良の先駆ともいえる、注目すべき内容だったのです。
アクセスカウンター
2
1
8
1
2
3
7
一斉メール配信