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上三川高校周辺の歴史
周辺の歴史 その1
1 遺跡の上にたつ上三川高等学校
○上三川高等学校は、遺跡の上にたっています。「多功南原遺跡(たこうみなみはらいせき)」といい、学校やその北側の多功南原公園なども含む周辺一帯をさします。
○このうち本校の敷地内は、校舎が建てられる前年の昭和58年(1983)5月から9月にかけて発掘調査が行われました。その結果、住居跡9軒の他、井戸跡、火葬墓、土坑29、土師器(はじき)や須恵器(すえき)などの土器、瓦や砥石、鉄製の鏃(ぞく、矢の先についた刃)などが見つかりました。
○たとえば住居跡の1つをみてみると、大きさは東西4.5m、南北4.2mで、広さはだいたい15畳程度です。四方それぞれ20cm余り掘られていて、これが壁の役割を果たしました。内部に2ヵ所、柱をたてた穴が残り、北側には煮炊きをしたと思われる、かまど跡があります。
○これらのうち、土坑については縄文時代のものとされていますが、それ以外は、住居跡から見つかった土器の年代から判断して奈良時代、8世紀なかごろから9世紀後半ごろのものとみられています。
周辺の歴史 その2
2 多功にあった古代の建物の正体は?
○前回は上三川高校が原始・古代の遺跡の上に建てられたことをお話ししました。この多功南原遺跡には、本校の周りにも重要な遺構、遺物が多く残っています。
○なかでも、一般住居跡よりはるかに大規模な掘立柱(ほったてばしら)の建物址が、全部で59棟も見つかっていることは、きわめて注目されます。時期は8世紀末~9世紀初め、奈良時代末~平安時代初めごろのものとみられています。このうち最大のものは、9m×5.4mほどもあり、庇(ひさし)と瓦屋根をもつ立派な建物であったと推測されています。この時代、よほど重要な建物でないと瓦屋根は用いられません。
○いったい、こうした建物は何だったのでしょうか。専門家の中には、古代の役所、それも今の県にあたる国や、その下の郡の役所にしてはやや小さいので、郡の下の郷の役所跡ではないか、という人もいます。その一方で、この付近に古代日本の幹線道路の一つ、東山道(とうさんどう)が通っていたことがわかっているので、駅家(えきか・うまや)跡ではないか、とする説もあるのです。
○いずれにしても、本校付近が古代の下野において、政治的にかなり重要な地域であったことは、まちがいないようです。
周辺の歴史 その3
3 地名の由来ー上三川と多功ー
○本校の校名である「上三川」は、もちろん学校のある上三川町からとったものですが、ではそもそも「上三川」という町名の由来は何でしょうか。
○平安中期につくられた『倭(和)名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)という辞書によると、古代下野国河内郡の中に「三川郷」がありました。多功南原遺跡から出土した土器にも、「三川」と墨で書かれたものが見られます。この三川郷が、後に上・中・下に分かれ、下三川については不明ですが、中三川は江戸初期に上三川にあわさる形で廃止されました。その位置は、現在の上三川町大字上三川付近と思われます。
○では、この「三川」の由来は何でしょうか。単純に考えれば、この付近を流れる三本の川(鬼怒川、江川、田川。ただし異説あり)からきているともみなされますが、「三」はもともとほめたたえる意味の「ミ」とみなすべき、つまり多くの川が流れる場所、というほどの意味である、という説もあるのです。
○一方、学校のある大字「多功」は、一般には東山道に設けられたこの付近の駅家、「田部」が、本来は「田郡」(たこおり)で、これが多功になった、とされています。しかし、「タベ」の「タ」には意味はなく(調子を整えるため)、「ヘ」は「ウヘ(上)」、つまり台地をさし(このあたりは大字上三川付近が低地なのに対し、台地である)、これが郡衙(ぐんが、郡の役所)がおかれた関係で「田郡」に転じ、さらに多功となった、とする説もあるのです。
○地名の由来は、確実な証拠がないため、特定することは難しいのですが、その地域のいろいろな特徴から推測してみることには、それなりの意味があると思います。
周辺の歴史 その4
4 古代の役所跡-上神主・ 茂原官衙遺跡その1-
○上三川町上神主(かみこうぬし)と宇都宮市茂原(もばら)にまたがる河内郡衙(ぐんが、郡の役所)跡とみられるのが、上神主・茂原官衙(かんが)遺跡です。
○平成7~14年(1995~2002)にかけて上三川町教委と宇都宮市教委が行った調査の結果、瓦ぶき屋根1棟、掘立(ほったて)柱建物跡53棟、掘立柱塀(へい)跡2基、溝跡8条、道路跡などが確認されました。
○役所の規模は、東西約250m、南北約400mと推定され、西側に大きな門があった他、南東部にも出入口があったようです。
○遺構内部は北側の建物群、中央部の政庁域、南側の正倉域の3つにわかれ、南東部に接する形で東山道(とうさんどう)とみられる古代の幹線道路が通っていました。
○役所は8世紀前半を最盛期として、7世紀後半から9世紀前半まで存在していたとみられ、 この間、建物の変化から4つの段階にわけられます。
○これだけ郡役所の全体像がわかる遺跡は全国的にも少なく、また次回紹介するような人名を刻んだ瓦が多数出土していることもあり、平成15年(2003)国の史跡に指定されました。
周辺の歴史 その5
5 古代の人名-上神主・ 茂原官衙遺跡その2-
○この遺跡最大の特徴は、正倉域にある31.4m×9.0mの規模をもつ建物の屋根に葺(ふ)かれていたとみられる多数の瓦が出土し、このうち人名が刻まれているものだけでも約2300点もある点です。
○人名は18姓、94名が確認でき、これほど多くの人名瓦が見つかった遺跡は、他にないそうです。
○具体的に人名をみてみると、「酒部毛人」「神主部牛万呂」「大麻(続)古万呂」など、河内郡内の郷名と一致するものや、「雀部称万呂」「川和子万(呂)」のように、中世以降にみられる周辺の地名(雀宮、川名子)との関連が推測されるものなどがあります。
○ところで、なぜ瓦にこうした人名が刻まれたのでしょうか。皆さんも近くの寺院や神社などで、鳥居や灯籠などに人名が刻まれている場合があることに気づくことと思います。あれは、それらの造営にお金を出して協力した人々の名前です。同じように考えると、瓦の人名は、この瓦の製作費を負担した周辺の有力者、あるいは造営の労役に関わった人々を記録したものと推測されるのです。
○なお、名前の最後につくことの多い万(麻)呂は、大切な人やものの最後につく接尾語で、中世において人の幼名や刀、鎧(よろい)などにつく「丸」も、その名残ではないか、とする考え方もあるのです。
周辺の歴史 その6
6 中世武士多功氏、上三川氏の成立
○多功氏、上三川氏は、いずれも中世下野を代表する武家である宇都宮氏の一族で、鎌倉中期に多功城、上三川城をそれぞれ拠点として成立した、とされています。このことを確認できる信憑性の高い史料はありませんが、上三川城跡から出土した遺物は、鎌倉時代のものであることが確認されています。
○宇都宮氏は宇都宮を拠点として、次第に周辺の地域へ一族を配置していきました。このうち氏家氏(さくら市)や塩谷氏(塩谷町)の分立が最も早く、ついで多功氏や横田氏(同氏から上三川氏が分かれる)、そして鎌倉末期になり武茂(むも)氏(那珂川町)とその分家西方氏(栃木市)などが成立します。
○多功氏は、鎌倉前期の宇都宮家当主頼綱の子、宗朝に始まるとされています。室町前期に作成された系図には、「小山と号す」とあり、これはおそらく児山に通じるとみられるので、はじめは児山(下野市)を名字の地としたのかもしれません。また江戸時代の系図では宗朝の名字として「西上條」をあげていますが、これは宗朝の兄弟で上條を名乗った時綱が、宝治合戦(1247年)の際に三浦方に加担して討たれたため、宗朝がその所領の一部を継承したものと思われます。
○なお横田氏の祖である頼業も「東上條」を称しているので、事情は同じだったのでしょう。
○ところで多功氏、横田氏ともに鎌倉時代の史料には「宇都宮」の名字で記されていて、既に氏家や塩谷を名乗っていた分家との違いがみられます。これは多功氏、横田氏が、氏家氏や塩谷氏に比べて、まだ独立した御家人としての地位を得ていなかったことを示しているのかもしれません。
周辺の歴史 その7
7 南北朝時代の動乱と上三川城
○前回紹介したように、上三川城や多功城は、鎌倉時代なかごろに築かれたとされていますが、その後しばらくは関係史料がほとんど見当たりません。
○唯一、南北朝時代の上三川城の動向を伝える古文書が残っています。延元4年(北朝年号は暦応2年、西暦1339年)2月、南朝方の春日顕国(あきくに)という武将が、常陸小田城(茨城県つくば市)から下野南東部へ向けて進撃してきました。北朝・足利方であった宇都宮氏の勢力を討つためです。
○顕国は2月27日に八木岡城(真岡市)をおとした後、同月中に益子城も攻略し、さらに上三川城と箕輪城(下野市)へ進みました。この2つの城には当時、足利一門の桃井(もものい)氏の兄弟がそれぞれ入っていましたが、「自落」すなわち自ら城を捨てて逃げてしまったようです。
○本来の城主であったはずの宇都宮一族横田氏の名前は、古文書にはのっていませんが、おそらくは主家である宇都宮氏に従い、足利方として戦っていたものと思われます。
○関東における南朝勢力は、この時期最も強勢を誇っていました。このため上三川城も、少なくともいったんは南朝方によって占拠されてしまったようです。
周辺の歴史 その8
8 戦国時代の東西交流-多功氏家臣石崎氏-
○戦国時代、本校周辺を治めていた多功氏には、石崎氏という家臣がいました。系図によると、もともとは伊予国(今の愛媛県)の武士で、南北朝時代なかごろに宇都宮家の当主氏綱から所領を与えられたことを機に下野へ移り、室町時代には宇都宮一族の多功氏に仕えました。
○伊予の武士が宇都宮氏から所領をもらうのは不思議に思うかもしれませんが、実は宇都宮氏やその一族は、鎌倉時代に同国の守護や地頭に任ぜられたりしていたのです。
○そして室町時代の伊予関係の信頼できる史料には、喜多(きた)郡(今の大洲(おおず)市付近)に祖母井(うばがい)氏や水沼氏など、下野国内を本拠とする宇都宮氏の家臣たちの名が複数見られます。つまり宇都宮氏は、伊予へ赴く際に彼らを引き連れていったものと推測されるのです。
○だとすれば、反対に伊予の武士が宇都宮氏の家臣となって下野へ移ってきても、おかしくはないでしょう。もし本当に石崎氏の出身が本当に伊予であったとすれば、現在までに知りうる唯一の事例ということになります。中世の人々は、われわれが思っている以上に頻繁に移動し、遠隔地に移り住んだりすることも珍しくなかったようです。
○石崎氏は、古文書によれば天正10年代の前半、主家の多功氏や、その主家である宇都宮氏に従い、北進を続けていた小田原北条氏との戦いに参加して、土地や役職を与えられたりしています。
○なお上で紹介した系図や古文書は、今も町内に住むご子孫が大切に受け継ぎ、保管してきたものなのです。
周辺の歴史 その9
9 多功原合戦をめぐって-その1-
○元亀4年(1573)と推測される3月5日、越後の戦国大名上杉謙信は、会津蘆名(あしな)氏の家臣宛てに書状を出しますが、その中に次のようなことが書かれていました。
「北条氏政が兵を北関東に遣わして無益な戦いをしかけてきたが、佐竹氏や宇都宮氏らの連合軍がこれを迎え撃ち、合戦となった。昨年12月29日夜、下野国の多功原で北条軍が敗れ、それを佐竹・宇都宮氏らが追撃したため、北条方の数千人が討ちとられた。そのため 氏政は一騎のみとなって岩付へ逃げていったとのことである」(上杉家文書)
○すなわち、戦国時代後期に、本校付近で関東最大の戦国大名である小田原北条氏が、下野宇都宮氏や常陸佐竹氏などの連合軍と合戦を行ったことがわかります。これを多功原合戦と呼ぶことにします。
○そもそもこの合戦は、なぜ起こったのでしょうか。実はこのころ、関東中・北部をめぐって上杉氏と北条氏が激しい勢力争いを繰り広げていたのです。宇都宮氏ら北関東の武将たちは、主に上杉氏と結んで自らの勢力を維持しようとしましたが、本国から遠く、単発的な攻撃しかできない上杉氏は、次第に劣勢になっていきました。
○一方、下野国内の諸勢力も実は一枚岩ではなく、那須氏や壬生氏など、宇都宮氏と勢力を争っていた武将たちは、北条氏と結んでいたのです。
○現在の栃木市北西部を本拠とする皆川氏も、はじめは宇都宮氏と同盟を結んで上杉方の立場でしたが、元亀2年(1571)に武田氏と北条氏が同盟を結んだのを機に北条方へ転じ、宇都宮氏とも対立するようになりました(次回へ続く)。
周辺の歴史 その10
10 多功原合戦をめぐって-その2-
○北条方に転じた皆川俊宗は元亀3年(1572)正月、かつての格上の同盟者だった宇都宮氏の本拠、宇都宮城を占拠してしまいました。この事態はまもなく解決した模様ですが、俊宗の反抗はなおも続きました。
○これを重大視した、ときの宇都宮家の当主広綱は、姻戚関係にあった常陸の佐竹義重(よししげ)に皆川討伐の支援を求めました。義重はこれをうけ、同年10月末に出陣し、広綱とともに皆川氏の諸城への攻撃を開始しました。
○一方、深谷城(埼玉県深谷市)や栗橋城(茨城県五霞〔ごか〕町)攻めのため小田原から出撃していた北条氏政は、佐竹・宇都宮両氏による皆川攻めの知らせを聞き、これを助けるために下野へ入りました。そこで両勢力が激突したのが多功原合戦だったのです。
○謙信が書状の中で述べる「氏政は一騎のみとなって逃げた」は、いくらなんでもオーバーですが、この戦いに北条軍が敗れたことはまちがいなく、佐竹氏や宇都宮氏らによる皆川氏攻めは、翌元亀4年2月まで続いたのです。
○ただし、北条軍の北進という動きを根本的に止めることはできず、天正2年(1574)末以降、いよいよ下野を含む北関東への侵攻は、激しさをましていきました。
○なお年代ははっきりしませんが、この前後の時期にも上三川や多功へは佐竹義重が着陣したり、北条軍が攻めかかったりしています。こうしたことから、この付近は戦略上の要地であって、元亀3年12月に多功原合戦が起きたのも、決して偶然ではなかったのかもしれません。