周辺の歴史 その3

3 地名の由来ー上三川と多功ー

○本校の校名である「上三川」は、もちろん学校のある上三川町からとったものですが、ではそもそも「上三川」という町名の由来は何でしょうか。

                   
○平安中期につくられた『倭(和)名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)という辞書によると、古代下野国河内郡の中に「三川郷」がありました。多功南原遺跡から出土した土器にも、「三川」と墨で書かれたものが見られます。この三川郷が、後に上・中・下に分かれ、下三川については不明ですが、中三川は江戸初期に上三川にあわさる形で廃止されました。その位置は、現在の上三川町大字上三川付近と思われます。


○では、この「三川」の由来は何でしょうか。単純に考えれば、この付近を流れる三本の川(鬼怒川、江川、田川。ただし異説あり)からきているともみなされますが、「三」はもともとほめたたえる意味の「ミ」とみなすべき、つまり多くの川が流れる場所、というほどの意味である、という説もあるのです。


○一方、学校のある大字「多功」は、一般には東山道に設けられたこの付近の駅家、「田部」が、本来は「田郡」(たこおり)で、これが多功になった、とされています。しかし、「タベ」の「タ」には意味はなく(調子を整えるため)、「ヘ」は「ウヘ(上)」、つまり台地をさし(このあたりは大字上三川付近が低地なのに対し、台地である)、これが郡衙(ぐんが、郡の役所)がおかれた関係で「田郡」に転じ、さらに多功となった、とする説もあるのです。


○地名の由来は、確実な証拠がないため、特定することは難しいのですが、その地域のいろいろな特徴から推測してみることには、それなりの意味があると思います。