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周辺の歴史 その2
2 多功にあった古代の建物の正体は?
○前回は上三川高校が原始・古代の遺跡の上に建てられたことをお話ししました。この多功南原遺跡には、本校の周りにも重要な遺構、遺物が多く残っています。
○なかでも、一般住居跡よりはるかに大規模な掘立柱(ほったてばしら)の建物址が、全部で59棟も見つかっていることは、きわめて注目されます。時期は8世紀末~9世紀初め、奈良時代末~平安時代初めごろのものとみられています。このうち最大のものは、9m×5.4mほどもあり、庇(ひさし)と瓦屋根をもつ立派な建物であったと推測されています。この時代、よほど重要な建物でないと瓦屋根は用いられません。
○いったい、こうした建物は何だったのでしょうか。専門家の中には、古代の役所、それも今の県にあたる国や、その下の郡の役所にしてはやや小さいので、郡の下の郷の役所跡ではないか、という人もいます。その一方で、この付近に古代日本の幹線道路の一つ、東山道(とうさんどう)が通っていたことがわかっているので、駅家(えきか・うまや)跡ではないか、とする説もあるのです。
○いずれにしても、本校付近が古代の下野において、政治的にかなり重要な地域であったことは、まちがいないようです。
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