文字
背景
行間
周辺の歴史 その7
7 南北朝時代の動乱と上三川城
○前回紹介したように、上三川城や多功城は、鎌倉時代なかごろに築かれたとされていますが、その後しばらくは関係史料がほとんど見当たりません。
○唯一、南北朝時代の上三川城の動向を伝える古文書が残っています。延元4年(北朝年号は暦応2年、西暦1339年)2月、南朝方の春日顕国(あきくに)という武将が、常陸小田城(茨城県つくば市)から下野南東部へ向けて進撃してきました。北朝・足利方であった宇都宮氏の勢力を討つためです。
○顕国は2月27日に八木岡城(真岡市)をおとした後、同月中に益子城も攻略し、さらに上三川城と箕輪城(下野市)へ進みました。この2つの城には当時、足利一門の桃井(もものい)氏の兄弟がそれぞれ入っていましたが、「自落」すなわち自ら城を捨てて逃げてしまったようです。
○本来の城主であったはずの宇都宮一族横田氏の名前は、古文書にはのっていませんが、おそらくは主家である宇都宮氏に従い、足利方として戦っていたものと思われます。
○関東における南朝勢力は、この時期最も強勢を誇っていました。このため上三川城も、少なくともいったんは南朝方によって占拠されてしまったようです。
アクセスカウンター
2
1
8
1
1
9
2
一斉メール配信